〈皆様のご協力ありがとうございました。今日娘は残念な姿ではありますが見つかりました〉
住宅街には1メートル近い積雪が残り、春の到来はまだ遠いと感じられる3月下旬の北海道・旭川市。わずかに解け始めた市内の公園の雪の中から、市内に住む中学2年生、廣瀬爽彩(さあや)さん(14)が、変わり果てた姿で見つかった。最愛の娘を亡くした母親は、自身のSNSで辛い胸の内を冒頭のように綴った。
※本記事では廣瀬爽彩さんの母親の許可を得た上で、爽彩さんの実名と写真を掲載しています。この件について、母親は「爽彩が14年間、頑張って生きてきた証を1人でも多くの方に知ってほしい。爽彩は簡単に死を選んだわけではありません。名前と写真を出すことで、爽彩がイジメと懸命に闘った現実を多くの人たちに知ってほしい」との強い意向をお持ちでした。編集部も、爽彩さんが受けた卑劣なイジメの実態を可能な限り事実に忠実なかたちで伝えるべきだと考え、実名と写真の掲載を決断しました。
爽彩さんは今年2月13日の夕方18時過ぎに自宅を出たきり、行方不明になった。家族や友人、ボランティアらが1カ月以上にわたって必死に捜索したが、ついに彼女が再び我が家に戻ってくることはなかった。
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目次雪解けにより発見されたが、遺体は凍った状態だった
捜索を行った近親者が、遺体発見当時の状況を語る。
「爽彩さんが見つかったのは自宅から数キロ以上離れた公園の中です。発見時の服装は軽装で、薄手のパンツとTシャツ、上にパーカーを羽織っていただけでした。検死の結果、死因は低体温症と判断されました。死亡日時は、2月中旬とまでしか断定できないそうです。
爽彩さんが家出した日は、氷点下17℃以下の凍てつくような日でした。極寒の中、あの軽装で外にいたのでは、正直3時間くらいしか体力的にもたなかったのではないでしょうか。公園で力尽きたであろう爽彩さんの上に、その後どんどん雪が積もった結果、誰も発見できないまま、3月下旬になってしまいました。
暖かくなり、少し雪が解けたことにより遺体の一部が見えるようになった。公園の近くに住んでいる住民がその遺体を発見し、警察に通報したのです。駆け付けた警察がスコップで雪を掘って、爽彩さんを外に出しました。彼女の遺体は冷たく、凍った状態でした。
彼女の死が自殺だったかどうかはわかりません。確かに失踪当日、自殺についてLINEでほのめかしていたものの、どこまでその意志があったのかは不明です。なぜ公園にいたのか、その経緯や亡くなった際の詳しい状況もよくわからないので、自殺とは断定できないそうです」
前途ある14歳の少女にとって、あまりに残酷な最期だ。爽彩さんの身に一体何があったのか。
https://bunshun.jp/articles/-/44765
「性的な辱め」のトラウマに苦しんでいた
「文春オンライン」編集部に爽彩さんの母親の支援者から連絡が寄せられたのは、彼女の遺体が発見されてから1週間後のことだった。この支援者によると、爽彩さんは2019年4月、地元のY中学校に通うようになってすぐ、近隣の小中学校の生徒から「性的な辱め」を受けた過去があり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症、死亡する直前までそのトラウマに苦しんでいたという。
取材班は旭川に向かった。だが、関係者に多くの未成年がいることを鑑み、未成年の関係者への取材は保護者を通じて申請するなど取材は可能な限り慎重に進めた。
取材班は支援者を通じて爽彩さんの母親にも取材を申し込んだ。母親は憔悴しきっていたが、「本当はお話しするのもつらいのですが、これ以上同じようなことが二度と起きてほしくない。そして爽彩が生きていたということを知ってほしい」と、取材を受諾してくれた。
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最後の会話は「気を付けて行ってきてね」
2006年に旭川で生まれ育った爽彩さんは母親と市内のアパートで2人暮らしだった。母親は爽彩さんが幼かった約10年前に夫と離婚し、シングルマザーとして娘を育ててきた。爽彩さんが失踪した2月13日のことは、これまで何度も思い返しているという。
「あの日は、夕方5時頃に私が仕事で家を空けなくてはならなくなったんです。自分の部屋にいた爽彩に『ちょっと1時間だけ空けるんだけど、すぐ戻ってくるね。戻ってきたら焼肉でも食べに行く?』と声を掛けたら、『今日は行かない。お弁当買ってきて。気を付けて行ってきてね』と。まさか、それが娘との最後の会話になってしまうとは考えもしませんでした。
私が家を出て1時間くらいたったときに警察から携帯電話に着信がありました。出ると、男の警察官が『家の鍵を開けてください』ってすごい勢いで急かすのです。もしかして娘の身に何かあったのかもしれないと思い、急いで帰宅しました。
自宅に戻ると家の前にはすでに多くの警察の方が集まっていて、『爽彩ちゃんの安否確認をお願いします』と言われました。それで、すぐに家の中に入ったのですが、部屋の灯りはついていた。でも、つい1時間前まで部屋にいた爽彩の姿はもうありませんでした」(爽彩さんの母親)
母親に何も告げることなく、家を飛び出した爽彩さんは、失踪直前に自殺をほのめかすメッセージを複数の友人に送っていた。
『今日死のうと思う』
『今まで怖くてさ』
『何も出来なかった』
『ごめんね』
と、LINEでお別れを告げていたのです。他にも同様のメッセージを受け取っていた方が数人おり、そのうちの1人が警察に『旭川の〈ひろせさあや〉という子が自殺を仄めかしている』と、通報してくださったそうです。その通報を受けて、私の携帯電話に警察から電話があったのです」(同前)
ビラ1万枚を用意しての大捜索
爽彩さんの行方がわからなくなった2月13日18時の気温は氷点下17℃以下。成人でも長時間外を歩き続ければ命に関わるほどの酷寒。しかし失踪当日の爽彩さんの服装は軽装で上着も自宅に置いたままだった。現金も所持していなかった。母親が娘の携帯に何度電話しても、電源が入っていなかったため繋がらず、携帯に内蔵されているGPSも機能しない。居場所はわからなかった。
それでもパトカーによる捜索は続けられ、警察犬も投入された。失踪翌日には、ヘリコプターによる上空からの捜索も行われた。その後、親族とボランティアが協力して、爽彩さんの写真や特徴を記したビラを1万枚用意しての大捜索も行った。
「捜索する側とビラを配る側とに分かれて捜しました。当時通っていたX中学校の先生も毎日探してくれた。ボランティアの方が地元のラジオ局に爽彩のことを伝え、(ラジオで)呼びかけてくれたりもしました。旭川以外にも捜索範囲を広げて、100キロ以上離れた札幌でもビラを配るなどして捜しましたが、娘を見つけてあげることはできませんでした」(同前)
失踪から38日が経った3月23日、悲報が母親に
それにもかかわらず、失踪から19日が経った3月4日、捜索は手詰まりとなり、警察は公開捜査に踏み切った。そして、失踪から38日が経った3月23日の14時半、悲報が母親の元へ伝えられた。
「警察から電話がかかってきて、身元の確認のため、安置された旭川東警察署に来てほしいと言われました。『絶対に爽彩じゃない。あの子は生きている』って思っていたから、警察に『違います』と、言おうと思っていました。でも、警察署に行って、安置所で遺体を見たら、間違いなくあの子だったんです。娘は凍っていました。私は何度も娘に謝りました」(同前)
https://bunshun.jp/articles/-/44765?page=3
部屋から『ごめんなさい』『殺してください』と独り言が
取材は爽彩さんが暮らした自宅の居間で行われ、母親の他、親族や支援者も集まった。仏壇には、優しく微笑む爽彩さんの遺影が飾られていた。
「今でもあの子を産んだ時のことは忘れません。3384グラムの元気な女の子でした。小さいころから健康優良児で食べることが大好きで、元気に学校に通っていたころは『今日給食でおかわり5回した』なんて話してくれる子でした。自然がいっぱいある緑に囲まれたベンチで静かに勉強するのが好きで、鳥の鳴き声も好きって言っていた」(同前)
爽彩さんの親族も声を震わせる。
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「遺影は8カ月前の昨年の夏に、爽彩が久しぶりに外に出て、お友達と偶然会った時に、みんなで撮ったものにしました。生まれた時から七五三などの節目のイベントがあるたびに写真館で写真を撮っていたんです。
でも、中学校に入ってイジメを受けた後は、あの子は引きこもるばかりで、ほとんど写真が撮れなかった。
以前は『将来は法務省で働いて正義の味方でいたい』ってよく言っていました。『検察官ではなく、弁護士はどうなの?』って聞いたら『爽彩は悪い人の味方はしたくない』って。
でも、イジメを受けてからは全部変わってしまった。自己否定を何度も繰り返し、部屋から『ごめんなさい、ごめんなさい』『殺してください』と独り言が聞こえてくるようになった。『外が怖い』と外出も出来なくなってしまいました。
絵が昔からとても好きな子でね、いつもカラフルな明るい絵を描いていたのですが、それも随分とテイストが変わりました」
イジメの後は描く絵のトーンも暗くなった
爽彩さんが家に引きこもるようになった2019年の秋以降に描かれたイラストがここにある。それまで描いていた色彩豊かな調子はなくなり、色はモノトーンに。ある絵には「ムダだって知ってるだろ」との言葉が書き込まれていた。彼女の心の叫びだったのだろうか。
https://bunshun.jp/articles/-/44765?page=4