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全体主義が生んだ怪物”ジョージ・ソロス”の投資手法

ジョージ・ソロス: George Soros、1930年8月12日[1] – )は、ハンガリーブダペスト生まれのハンガリー系ユダヤ人投資家トレーダーウォーレン・バフェットジム・ロジャーズとともに世界三大投資家としてよく知られる[2]

天才投資家として知られ「イングランド銀行を潰した男」(The Man Who Broke the Bank of England) の異名を取る。

ソロス・ファンド・マネジメント英語版) (Soros Fund Management) 会長、オープン・ソサエティ財団 (Open Society Foundations; 旧称: Open Society Institute) 創設者、彼の生まれ故郷でもあるブダペストにある中央ヨーロッパ大学 (CEU) 共同創設者、Project Syndicate 出資者、シンクタンク Institute for New Economic Thinking (INET) 出資者及び創設者の一人である。投資家であると同時に政治運動家、政治経済に関する評論家としても活動している。自身を「国境なき政治家」と称す。Black Lives Matterの主要な出資者の一人でもある。

目次

経歴

ヘッジファンドがまだその呼称さえ確立していなかった黎明期の1969年にソロスはクォンタム・ファンドを立ち上げ、投資家としてのキャリアを開始した。1998年、ファンドはその規模(運用資産)において世界最大のヘッジファンドとなった。2010年時点の運用資産は史上最大の270億ドルに達した。2011年1月26日、ファンドでの投資活動から引退したことを明らかにした。2013年、アベノミクス量的緩和政策による円安相場で、ソロスは10億ドルの利益を得た。また同年にクォンタム・ファンドは、55億ドルもの利益を上げた。これはヘッジファンド史上最高額であるという。

家族

ジョージ・ソロスは弁護士エスペラント作家であったティヴォドアとエリザベスの二人兄弟の次男として生まれた。カウフマンの伝記 『ソロス』 (2002年) によれば、ティヴォドアはハンガリー系のユダヤ人であり、第一次世界大戦の戦中と戦後に捕虜となり、ロシア捕虜収容所から脱走し、ハンガリーブダペストで自分の家族と合流した。

ユダヤ人であったソロス一家は、ファシストの台頭と反ユダヤ主義の広まりに危機を覚え、1936年にユダヤ人に多いSchwartz(シュヴァルツ)からSoros(ショロシュ)へと姓を変えた。父のティヴォドアは、この新しい名前が気に入った。回文であり、それなりの意味があったからであり、”soros” はハンガリー語で「並びの次」または「指名されている後継者」を、エスペラントでは「上昇するだろう」を意味するという。

ジョージ・ソロスは、生まれたときからエスペラントを学んだ。このため、彼は数少ないエスペラント母語話者である。ジョージ・ソロスは後に、典型的なブルジョアのユダヤ人家庭に育ったことと、彼の両親は宗教的なルーツに対して慎重であったことを述べている。ただし、父・ティヴォドアはユダヤのルーツを誇りにしていた。これは、彼のホロコースト体験を綴った回顧録「Masquerade」にも記述されている。

ソロスの一家は正統派ユダヤ教に属するユダヤ人家庭であったものの宗教的には実質的に無宗教であったが、ジョージの母親は戦後信仰を持つようになったという。ジョージは自身が無神論者であることを認めている。

結婚歴は3回あり4男1女がいる。現在の妻は2013年に結婚した日系人の薬剤師・実業家のタミコ・ボルトンである。

青少年期

ソロスが13歳のとき、ナチス・ドイツが同盟国であるハンガリーを軍事的コントロール下に置いた(1944年3月19日)。そして、ハンガリーのユダヤ人に対しホロコーストによる殺戮が始まった。ソロスは、短い間だが、ナチスが設立したユダヤ協会に従事した。この組織は、ユダヤ人弁護士たちに退去命令を送るものであった。ソロスは、退去命令がもたらす結果について、関知していなかったと主張した。彼の家族は、自分たちがクリスチャンであることを証明する書類を購入して戦争を生き延びた。翌年、ソロスはナチス・ドイツ軍ソ連軍による熾烈なブダペスト包囲戦を生き延びた。その後、ソ連軍によるの虐殺を目の当たりにしハンガリーを脱出することを決意する。この時期のハイパーインフレーションの間(1945年 – 1946年)、ソロスは初めて通貨取引をした。

1946年、ソロスは西側でのエスペラント青年議会に参加することによって、戦火で荒廃しソ連に占領された祖国から逃れ、17才のときに家族とフランス、次いでイギリスに逃れた。ソロスは、1947年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学する。

国許からは全く援助はなく、彼は学費と生活費をすべて自分で稼がなくてはならなかった。ソロスは昼は鉄道駅で貨車の積み込みの重労働をし、夜はウェイターをして授業料を稼ぎ、無一文になったことも度々あった。ある時、彼は貨車の渡り板から落ちて脚を骨折した。仕事にも出られなくなり、ベッドに寝たきりで絶望していた彼のところに思いがけず、保険金の小切手が送られてきた。その保険金で、ようやく大学の授業料を払うことができたのである[要出典]

LSE では学士論文の指導教官を彼の“哲学的導師”である哲学者カール・ポパーに依頼した。ソロスは1951年に「哲学」の学士号BSc)を、1954年に同じく「哲学」の修士号MSc)を LSE より授与されている。

卒業したソロスは、1954年、ロンドンの商業銀行であるシンガー&フリードランダー社英語版)に就職し、1956年には同僚の父親が経営するニューヨークの証券会社F.M.メイヤー社に転職した。その意図はウォール街で十分な資産を稼ぐことにあったと述べている。その時のソロスは著述家になり、彼の夢である哲学者として自立することを考えていた(ハンガリーではソヴィエト連邦の政治に抵抗してハンガリー動乱が発生していた)。

その後、ソロスは恩師であるポパーとは後年、LSE で再会を果たしている。ポパーは彼にとっては過去の一学生に過ぎないソロスのことを覚えてはいなかったが、ソロスの哲学と慈善事業を評価し激励した。またこの時ポパーは、「開かれた社会」をようやく(建国以来「開かれた社会」であるアメリカの)アメリカ人が理解したと思っていたため、ソロスがファシズム共産主義体制(すなわち「閉ざされた社会」)を経験しているハンガリー出身者だと知ってがっかりしたという。

ポパーの没年となる1994年には、ソロスは彼によって1991年に設立されたばかりの中央ヨーロッパ大学 (CEU) での講演をポパーに依頼し、これを受けてポパーは講演を行っている。ちなみに CEU には「Popper Room」と名付けられた大講堂がある。

ビジネス

ソロスはファンド・ソロス・ファンド・マネジメントSoros Fund Management)の設立者である。1970年、彼はジム・ロジャーズとともにクォンタム・ファンド (Quantum Fund)を設立した。ファンドの名称はソロスの「再帰性」の理論と関連するヴェルナー・ハイゼンベルク不確定性原理を基礎とする量子力学の「quantum(量子)」にちなんで名付けられた。

ファンドは1973年からの10年間で4200%のリターンを出してソロスの富の大部分を形成した[3](この間、S&Pは47%上昇しただけだった)。

2011年の時点でソロス・ファンド・マネジメントは、40年以上の間、平均して年間20%のリターンをもたらして来たとしている[4]。これはヘッジファンド史上最高のパフォーマンスに相当する。また同ファンドは1973年以来、2013年までに400億ドル以上の利益を生み出して来たという[5]

通貨投機

1990年代初頭のイギリスは、1989年東西ドイツ統合欧州経済共同体の域内資本移動活発化による資本流出、欧州各国の不況、イギリスのサッチャー政権を初めとした各国政府の財政健全化策の影響などによって経済成長が後退し、失業率が上昇を見せ始めていた。弱い経済の中、イギリスは欧州為替相場メカニズム (ERM) に従い、自国通貨ポンドと欧州他国通貨との相場を、将来の欧州共通通貨ユーロ導入に向け、一定範囲に固定する政策を取っていた。1992年になると欧州経済圏統合の形を具体的に定めた「マーストリヒト条約」が調印された。その中では、参加国は「政治統合無しの通貨統合を行う」と謡われていたことから、ユーロ導入が進むことでユーロ採用国が自国経済調節のため打ち出す金融政策の柔軟性は失われて行くであろうことが予想された。

イギリスは共通通貨導入に向けたこれらの制約によって、効果的金融政策の手段の一部を欠いていた。欧州経済が不調な中で1992年9月、同様に経済が後退期に入りつつあったイタリアが自国通貨リラを7%切り下げた。以前よりソロスは彼の部下スタンレー・ドラッケンミラーStanley Druckenmiller)(後に世界的に著名なヘッドファンドマネージャーとして知られるようになる)と共に、イギリスの経済力に比して通貨ポンドが政府により無理に高く固定されているとソロスは考えていた。

イタリアによるリラ切り下げを契機に、ジョージ・ソロスたちは短期間に巨額のポンド売りを行った。これによりポンドは大きく下落した。イギリスはユーロ導入に向けて、自国のポンドをERMのルールに基づき固定させる必要があったため、イギリス政府・財務省は大規模な為替介入を行い、ポンドの下落を食い止めようとしたが、ポンドを買う資金が尽きてしまった。そして、イギリスはポンドの固定相場制をやめてERMから脱退し、ユーロ導入を断念した(ポンド危機)。

「ブラック・ウェンズデー」とも言われたこのポンドの大波乱(ポンド危機)は、結果的に「英国病」に苦しんでいたイギリス経済が改善するきっかけとなったことから、現在では「ホワイト・ウェンズデー」とも呼ばれている。

イギリスがERMを脱退しユーロ導入を断念して以後、イギリス国内経済は、1993年より2008年まで長期に渡り失業率の改善・安定経済成長・安定インフレ率を実現した。

1992年10月26日の「タイムズ」紙にて、ジョージ・ソロスは以下のように答えている。「我々のブラックマンデーまでのトータルポジションはほぼ100億ドルの額であった。」「しかし、我々はそれ以上に売ることを決断した。」「事実、ノーマン・ラモント(英財務大臣)がポンドを買い支えるため、150億ドルを借りることを価値切り下げの直前に行ったとき、我々はどのくらい空売りすることになるかということを暗に示していたので、楽しんでいた。」

1997年アジア通貨危機の間、マレーシア首相マハティールはソロスがマレーシア通貨リンギットを下落させたと名指しで非難した。ソロスはこの非難について、アジア通貨危機の最中もそれに先立つ数ヶ月間にも、バーツやリンギットを売ったことがなく、これらの通貨が下落しはじめたときはリンギットを買っており、この買いは早すぎたと述べている。なお、マハティールとソロスはその後和解している。

インサイダー取引の有罪判決

1988年、ソロスはフランスの大手金融機関ソシエテ・ジェネラルの乗っ取りの試みに参加するように頼まれた。彼は株式の取得への参加を断ったが、後に比較的少量の株式を買った。14年後の2002年、フランスの裁判所はその行為はフランス証券取引法を根拠としてインサイダー取引であると裁決し、200万ドルの罰金を科した。ソロスは一貫して罪状を否認し、乗っ取りのニュースは誰もが知っていたことであったと主張した[6]

スポーツ

2005年に、ソロスはメジャーリーグの野球チーム、ワシントン・ナショナルズを購入しようとしたグループの少数のパートナーであった[7]

2008年に、ソロスの名前はイタリアのサッカークラブ、ASローマと関連していたが、クラブは売却されなかった。ソロスはワシントンサッカーLP──メジャーリーグサッカークラブ、DCユナイテッド1995年に設立されて以来操作権を所有していたグループ──の財政的後援者だったが、グループは2000年にこれらの権利を失った[8]

2012年8月21日BBCは、SECへの提出書類によって明らかになったこととして、ソロスが英国のサッカークラブ、マンチェスター・ユナイテッドのクラスA株のおよそ1.9%に当たる310万株を取得したと報じた[9]

政治運動家

投資家・投機家として著名なソロスであるが、政治運動家としても知られる。例えば、ポーランド民主化運動において、労働組織である「連帯」へ支援を行い、チェコスロバキアにおける反体制運動であった憲章77と同様に、ソビエト連邦によるこれらの国々への支配を終わらせることに寄与した。また、2003年グルジアで起こった政変(バラ革命)でも彼の資金提供があったとされ、その成功に重要な役割を果たしたとロシアと西欧双方の一部識者から評された(ソロスはこの見方を、誇張されたものだとコメントしている)。その他、2004年アメリカ大統領選挙において、ジョージ・W・ブッシュの再選に反対する陣営に支援を行った[要出典]

連邦準備制度議長ポール・ボルカーは、ソロスの著書『ソロスの錬金術』(原題:The Alchemy of Finance)の序文に寄稿し、以下のように述べた。ジョージ・ソロスは、非常に成功した投機家として、あるいは、まだゲームが有利なうちに手を引く賢明さを具えていることで、その名を知られている。現在、彼の得た大金の大半は、途上国と新興国の社会が「開かれた社会」になるために使われている。ここで言う「開かれた社会」とは、”商業の自由”のことだけを意味しているわけではない。もっと重要なこと、すなわち(人々が)新しい考え方や、自分とは異なった考え方や行動に対して、寛容の心を持っていることを意味している。

2018年10月25日、BBCによると、デビー・ワッサーマン・シュルツの名前を騙ったパイプ爆弾の爆発物が、ヒラリー・クリントンバラク・オバマCNNジョン・オーウェン・ブレナンCIA長官、エリック・ホルダー司法長官、ジョージ・ソロスに送られたが爆発しなかった[10]。10月26日にFBIは指紋からフロリダ州在住の熱烈なドナルド・トランプ支持者の56歳の男シーザー・セヨクを逮捕した[11][12]

慈善事業

ソロスは、アパルトヘイトが行われていた南アフリカの黒人生徒のケープタウン大学への通学援助のために基金の提供と、鉄のカーテンの後ろでの反体制運動への資金提供を始めたときの1970年代以来慈善家として活動している。東ヨーロッパでのソロスの慈善的資金提供はほとんどオープン・ソサエティ協会(Open Society Institute, OSI)とNational Soros Foundations——これはポーランドでときどき他の名前(Stefan Batory Foundationなど)を通して行われている[13]。注目すべきプロジェクトには科学者への援助と、中央・東ヨーロッパのいたるところの大学への援助とサラエヴォ包囲間の市民の援助、世界規模のドラッグを廃止するためのドラッグ禁止法への努力への援助、トランスペアレンシー・インターナショナルへの援助などがある。

初め自宅で妻の助けを借りながらごく個人的な活動として始まったソロスの慈善事業は、現在では100ヵ国を超える国々で活動している世界的な財団ネットワーク(オープン・ソサエティ財団; Open Society Foundations; 旧称: Open Society Institute)にまで発展した。2015年現在、OSF は最近は毎年8億ドルを使っていると発表している[14]

また、1979年に始まるソロスの慈善事業への寄付金の総額は、2015年までに120億ドルを超えた[15]

2009年には、ニューヨーク州の全貧困家庭の子供たちを対象として1億7500万ドルを無償提供した[16]

ソロスはまた、彼の生まれ故郷ハンガリー・ブダペストにて共産主義の崩壊後の1991年に設立された中央ヨーロッパ大学 (CEU) の共同創設者であり、4億2000万ユーロの寄付を行っている。同大は現在、追加の資金援助によって8億8000万ドル(2010年)もの豊富な大学基金を有する、ヨーロッパで8番目に資金力のある大学になっている[17]

ソロスが5000万ドルを提供する約束で2009年10月、ニューヨークにシンクタンクとして新経済思想研究所(Institute for New Economic Thinking, INET)が創設された。この研究所にはジョセフ・スティグリッツジョージ・アカロフジェフリー・サックスらが助言を行っている。 2010年4月には同研究所経由での出資により、英オックスフォード大学に新たな経済研究所を創設すると発表した。

彼はニューヨークのNew School for Social Research1980年オックスフォード大学ブダペスト経済大学1991年イェール大学から名誉博士号を授与された。2000年にソロスはまた1995年ボローニャ大学の最も名誉なLaurea Honoris Causa同様、財政の賞のためにYale School of ManagementからYale International Centerを授与された。

オープン・ソサエティ財団はまた、ウィキメディア財団の大口寄付者の一つでもある[18]

2018年5月15日、オープン・ソサエティ財団はソロスの祖国であるハンガリーからの撤退を発表した[19]。政府からの締め付けが強まったからだと説明している[19]

哲学

教育と信条

ソロスは哲学に強い関心を抱き続けてきた。彼の哲学に対する考え方は、主にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス在学中に学んだカール・ポパーの思想に広範な影響を受けている[20]。実際、ソロスが創設した「Open Society Institute」は、ポパーの上下2巻に及ぶ著書『開かれた社会とその敵』(原題: Open Society and Its Enemies)にちなんで名付けられているし、ソロスが現在取り組んでいる哲学上の関心事である「可謬論(可謬主義)」[注釈 1]の原則も、同様にポパーの哲学に由来している。もっとも、ソロスの固い政治信条がポパーが支持する徹底した合理主義と矛盾するのではないかとする批判もあるが、ソロス本人の主張するところによれば、彼の政治信条はまさにポパーの合理主義を通して培われてきたものであるという[要出典]

再帰性

ソロスによる「再帰性」(相互作用性[20])の理論は人間社会で起こる出来事を理解するためのパラダイムである。

この理論では、再帰性の定義として、人間が世界を知識として理解しようする機能を「認知機能」と呼ぶ。また、人間が世界に影響を与えようとし、改造しようとする機能を「操作機能」と呼ぶ。認知機能においては、世界の現実的な姿が独立変数、観察者の世界理解が従属変数となる。

ここで、「世界 world 」の現実的な姿を「W」、観察者の「世界理解 understanding」 を「U」、「認知機能」(認知 cognition の機能 function)を「FC」とすると、”FC(W) → U” と記述できる。

一方、操作機能においてはこの関係が逆転して、観察者の世界理解が独立変数、世界の現実的な姿が従属変数となる。

操作機能(操作 manipulation の機能 function)を「FM」とすると、”FM(U) → W” と記述できる。

つまり、U が W を、W を U が規定しあう関係となっており、この双方向的な状況においては確たる結果を生み出すことは不可能となる。

この双方向的な干渉を、ソロスは「再帰性(reflexivity)」と名付けた。

資本主義的自由市場システムについての主張

投資家・投機家としてのキャリアをスタートしてから増大し続けて来たソロスの富は、2015年には過去最高の277億ドルに達した。彼の莫大な富のほとんどを形成し、半生に渡り現在も継続しているそのキャリアにもかかわらず、ソロスは現在の国際金融投機のシステムについて、多くの発展途上国の健全な経済発展を阻害するものであるとし、また世界の多くの問題を彼の言う市場原理主義固有の失敗の為であると主張する。グローバリゼーショングローバル資本主義[20]に対しても、ソロスは多くの面で反対し、論争の的になっている。

ヴィクター・ニーダーホッファーによれば「とりわけ、ジョージはそれでも自己利益の過剰を罰するための強い中央国際政府のある混合経済を信じていた」。

グローバル市場において巨額の利益を得て来ながら、同時に一方ではこのグローバリズムに反対し、自己の利益を損なうことを意味する市場の規制強化を要求するという、自己矛盾的であり不可解にも感じられる彼の主張は、ポール・クルーグマンのような著名な経済学者を含めた専門家らをも困惑させて来た。

ソロスの主張に対して一貫して批判的態度を取っているクルーグマンは、この主張を「私がこれ以上儲ける前に、私の行動を止めてくれ!」という意味だと揶揄を込めて語っている[21]

これに対し、ソロスはまず、単に市場参加者であることと、市場参加者が従うべきルールを変えるために働くことの違いを示すことで自身の主張の意味を明らかにしている。つまり、既に単なる一投資家であることを超え、広く公共的利益のために政治経済に対する主張と活動を展開している彼にとっては、たとえそれが金融市場における自己利益の縮減を意味するものであったとしても、公共の利益のためならば市場システムの問題改善を要求することにやぶさかではないということである。

ソロスは市場参加者として自己の経済的利益のために働くことに何の疑問も持たないようである一方、同時に「国境なき政治家」を自負する者として、世界的な金融システムの劇的な総点検を政治家に働きかけてもいる。イングランド、東ヨーロッパとタイを含む多くの金融危機に対して個人的に責任があるという告発に対しては端的に、「市場参加者として、私は自分の金融行動の結果に関心を持つ必要はありません」と述べた。

また、ソロスは、ノーベル経済学賞受賞者の経済学者ジェームズ・トービンが案出した国際的な金融取引に税を課するトービン税に賛同している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・ソロス

投資手法は?

ジョージ・ソロス(George Soros)は、ハンガリー生まれの投資家であり、彼の投資手法は「クオンツ投資」や「マクロ投資」の分野で特に有名です。ソロスは自身の投資哲学を「反射性理論(Theory of Reflexivity)」に基づいて構築しており、市場の動きが投資家の心理や行動に影響を与え、それがさらに市場にフィードバックされるという考え方を重視しています。以下に、ソロスの主要な投資手法を列挙し、まとめます。

1. 反射性理論の活用

  • 概要: ソロスは、市場価格が単に経済のファンダメンタルズを反映するのではなく、投資家の認知や行動によって歪められると考えました。この「反射性」を利用して、市場の過剰反応やバブルを見極めます。
  • 手法: 市場参加者のバイアスや誤った認識が価格に影響を与えている局面を特定し、その歪みが修正される前にポジションを取る。
  • : 1992年のポンド危機(ブラック・ウェンズデー)では、イギリス政府の経済政策と市場の認識のズレを見抜き、ポンド売りのポジションで巨額の利益を上げました。

2. マクロ経済分析に基づく投資

  • 概要: ソロスは、個別企業の分析よりも、世界経済や通貨、金利、政治的要因などのマクロトレンドに注目します。
  • 手法: 通貨、金利、株式市場の大きな流れを予測し、それに基づいてヘッジファンド(クオンタム・ファンド)を通じて大規模なポジションを取る。
  • : 為替レートの変動や政府の金融政策の限界を見越した投資が特徴的。

3. レバレッジの積極的活用

  • 概要: ソロスはリスクを取ることを恐れず、レバレッジを活用して投資のリターンを最大化します。
  • 手法: 確信度の高いトレードでは借入金を積極的に使い、少額の資金で大きな市場インパクトを生み出す。
  • 注意点: この手法は高いリターンをもたらす一方で、リスクも非常に高い。

4. 市場のトレンドフォローと逆張りの組み合わせ

  • 概要: ソロスはトレンドに乗る場合と、市場が過剰に反応したタイミングで逆張りする場合の両方を柔軟に使い分けます。
  • 手法: 市場が過熱している(バブル)か、逆に過剰に悲観的になっているかを判断し、状況に応じてトレンドに乗るか反対のポジションを取る。
  • : ポンド危機では、市場のトレンド(ポンド安)を加速させる方向に賭け、成功。

5. 心理的・政治的要因の重視

  • 概要: 経済データだけでなく、政治的な出来事や市場参加者の心理状態を深く分析します。
  • 手法: 政府の政策決定や地政学的リスクが市場に与える影響を予測し、それに基づいて投資判断を行う。
  • : 欧州為替相場メカニズム(ERM)の崩壊を見越した投資。

6. 柔軟性と自己修正

  • 概要: ソロスは自分の予測が間違っていると判断した場合、迅速にポジションを調整する柔軟性を持っています。
  • 手法: 市場の動きを常にモニタリングし、仮説が外れた場合には損切りや戦略変更を躊躇しない。
  • 哲学: 「生き残ることが大事であり、正しいことよりも間違っている時にどう対処するかが重要」と述べています。

まとめ

ジョージ・ソロスの投資手法は、反射性理論を基盤に、マクロ経済の分析、レバレッジの活用、市場心理の読み込み、そして柔軟な対応を組み合わせたものです。彼の手法は単なるテクニカル分析やファンダメンタル分析を超え、市場の「非合理性」や「歪み」を積極的に利用する点でユニークです。特に有名な1992年のポンド危機では、これらの手法を駆使して10億ドル以上の利益を上げ、「イングランド銀行を破った男」として歴史に名を刻みました。ただし、この手法は高度なリスク管理と深い洞察力を必要とし、一般の投資家が真似するのは難しい側面もあります。

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