餃子の王将社長暗殺事件から10年
「王将フードサービス」の社長が銃撃され死亡した事件から、きょうで10年です。死亡した社長らが事件の一カ月前に、社内の不適切取引の実態を検証してとりまとめ、非公表とされてきた“幻の調査報告書”を独自に入手しました。 (2023年12月19日放送)
https://www.youtube.com/watch?v=Y8Eg3fw3w2A
幻の調査報告書に載っていた上杉昌也氏とは?
高級感あふれる名門セレブコースとして、バブル期に名を馳せた福岡県内にあるゴルフ場。その一角に、木々に囲まれ静謐な空気をまとった六角堂がある。中には、金色に輝く仏像と「慈唱院美空日和清大姉」と戒名が記された位牌が安置されている。
1989年6月24日に亡くなった昭和の歌姫・美空ひばりさん(享年52)の最後の後見人といわれた上杉昌也氏(78才)が、ひばりさんのために建立したものだ。上杉氏は、ひばりさんの資金トラブルの解決や晩年の闘病生活を支え、ひばりさんが「最後に頼った男」と呼ばれている。その上杉氏は、現在まったく異なることでスポットライトを浴びている──。
10月28日、福岡県に本部のある特定危険指定暴力団「工藤会」の幹部・田中幸雄容疑者(56才)が逮捕された。逮捕容疑は、2013年12月、全国に飲食チェーン「餃子の王将」を展開する王将フードサービス本社(京都市山科区)前の駐車場で、当時の同社社長・大東隆行氏(72才)を殺害した、殺人と銃刀法違反だ。
事件当初、拳銃で4発銃撃し、胸や腹に命中させるという手口から、実行犯をめぐり「プロのヒットマン説」が取り沙汰された。2015年12月には新聞各紙が、「現場近くから遺留品が見つかり、検出されたDNA型が九州に拠点を置く暴力団組員の男と一致した」と報じた。この男こそ田中容疑者だった。しかし、決定的な証拠が固まらないまま9年が経過し、迷宮入りの可能性さえ囁かれていた。
https://www.news-postseven.com/archives/20221110_1811274.html?DETAIL
「ひばりさんの晩年を支えてくれた上杉さんが突然、王将事件に関係してテレビや新聞のインタビューを受けていたので驚きました。政界や財界に顔が広い実力者なのは知っていましたが、たしかに当時から得体が知れなかったというか……」と困惑するのは、往年のひばりさんを知る芸能関係者だ。
上杉氏は京都と福岡を拠点に、不動産業やゴルフ場経営などを手掛ける実業家だった。バブル全盛期には、ゴルフ場、ハワイの別荘、熊本の豪華旅館、ジェットヘリやプライベートジェットなどを所有する航空会社まで傘下に収めた。経済事件に詳しいジャーナリストの伊藤博敏氏が言う。
「福岡出身の上杉氏は、若い頃に賭博で身を持ち崩し、関西に流れ着いたそうです。その後、京都で電話などの通信機器関連事業の会社を立ち上げました」
上杉氏の会社が、王将に電話機を納入したのが、両者の関係の始まりだったという。
「上杉氏の異母兄が、部落解放運動に取り組んだ伝説的なリーダーだった縁で、上杉氏は福岡や京都の政財界と親しくなっていきました。そのなかで、王将創業者である故・加藤朝雄氏とも親密な関係になったようです。王将が各地に出店する際や、資金繰り、運営トラブルなどで上杉氏が相談に乗る代わりに、王将も上杉氏の事業をサポートするという間柄だったようです」(前出・伊藤氏)
1993年に朝雄氏が亡くなった後も、王将と上杉氏の親しい関係は継続したようだ。
「創業一族の経営陣を中心に、上杉氏が関係する不動産を相場より高く購入するなど、上杉氏のビジネスに便宜を図ってきた。その結果、王将がかなりの損失を出していたのです」(前出・伊藤氏)
2000年に社長に就任した大東氏は、その関係にメスを入れたという。
「1993年から2006年にかけて、総額260億円以上もの不適切な取引が、上杉氏が代表をしていた企業グループとの間でなされ、王将は170億円もの損失を被っていたといいます。2013年11月に、王将の第三者委員会が、不透明な取引の全容を記した調査報告書のたたき台をまとめました」(前出・社会部記者)
それからわずか1か月後に、大東氏は殺害された。
「上杉氏はメディアの取材に対し、“取引は王将側から持ちかけられたもので、交渉はスムーズでトラブルはなかった”“事件には関与していない”と主張しており、今後の捜査の進展が待たれます」(前出・社会部記者)
https://www.news-postseven.com/archives/20221110_1811274.html/2
上杉氏の異母兄が、部落解放運動に取り組んだ伝説的なリーダーだった縁で、上杉氏は福岡や京都の政財界と親しくなっていきました。そのなかで、王将創業者である故・加藤朝雄氏とも親密な関係になったようです。王将が各地に出店する際や、資金繰り、運営トラブルなどで上杉氏が相談に乗る代わりに、王将も上杉氏の事業をサポートするという間柄だったようです
ということは王将は部落解放同盟と懇意にしていた、なんなら工藤会も部落解放同盟を便利に使ってきた、もしくは工藤会の中心にいたのが部落解放同盟か
部落解放同盟ってなんなんだ?
部落解放同盟の前身は全国水平社
全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)は、1922年(大正11年)3月、日本で2番目に結成された全国規模の融和団体で、第二次世界大戦以前の日本の部落解放運動団体である。略称は全水(ぜんすい)もしくは単に水平社。第二次世界大戦後に発足した部落解放全国委員会および部落解放同盟の前身である[1]。
背景
融和運動
明治維新の結果、明治天皇によって煥発された解放令により、穢多・非人などの被差別部落民は形の上では封建的な身分関係から解放されたが、実際にはさまざまな差別が残っていた。そのため、多くの部落民は文明開化・殖産興業・富国強兵が進行していく中で貧困に苦しんでいく。これを解決するため融和運動が提唱され、大正3年(1914年)6月7日、板垣退助、大江卓らによって日本最初の全国規模の融和団体となる「帝国公道会」が一君万民・四民平等の理念のもと設立された。これは「日本人は悉く平等に天皇陛下の赤子である」との思想のもと、差別の原因が部落の劣悪な環境や教育水準にあるとし、富裕層の力を借りての部落の経済的向上を目指し、また部落民の意識を高め部落外の人々の同情と理解を求めることで差別を無くそうとするものであった。これらの活動は国粋主義の強いもので、後に博徒系の人々が集まり「大日本国粋会」の設立に繋がる。
左派思想の流入
第一次世界大戦中のロシア革命や米騒動の影響を受け、「人類総てが平等である」という過激で革新的な思想が萌芽し、従来の融和運動ではなく同和を目指す集会「燕会」が催されると、西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作ら柏原(現・奈良県御所市柏原)の青年は「自分たちの力で部落の解放を勝ち取る」という運動を構想した。これをピューリタン革命の最左派であった水平派(レヴェラーズ)にちなんで新たな運動とし団体名を「水平社」と命名。大正11年(1922年)1月、冊子『よき日のために』を発刊、創立大会への結集を呼びかけた。これにより、大正デモクラシー期の日本において被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目的として「全国水平社(以下水平社又は、全水)」が創立された。
運動の低迷に終止符が打たれたのは昭和8年(1933年)である。この年の全水第11回大会で生活改善・差別撤廃闘争を通じ労農提携をめざす「部落委員会」方針が決定され、また大衆的な差別糾弾運動として展開された高松地裁糾弾闘争の高まりにより、全水の運動は復活に向かった。しかし、昭和12年(1937年)の日中全面戦争の開始以降、全水もまた戦争に積極的に協力し、かつての全水青年同盟の中から総力戦構築を通じ差別の撤廃をめざす転向者(朝田善之助ら)も出現するようになった。これらの結果、全水は翼賛体制に取り込まれることを潔しとせず、戦時体制下での結社届けを出すことを拒み、昭和17年(1942年)1月20日に団体としては自然消滅を選択した。
戦後、昭和20年(1945年)10月の志摩会談で水平社運動の再建が協議され、昭和21年(1946年)2月には旧水平社のメンバーや融和事業団体の役員たちが京都に集まり部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)を結成した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/全国水平社#:~:text=全国水平社(ぜんこ,同盟の前身である%E3%80%82
ほぼテロ組織ですね