南京大虐殺ってあったと思いますか?
私はなかったと思います。
だってデメリットしかないから
日本軍って軍資金の獲得のために中国で麻薬売ってたんですよ
今の中国がいうような人数殺したら儲け減るから普通に考えて日本軍は民間人殺さなかった
もっというと殺させないようにしていたと考えていいと思うんですよね
南京事件(ナンキンじけん)は、日中戦争初頭の1937年(昭和12年/民国26年)12月、日本軍が中華民国の南京市を占領した際、約2カ月にわたって多数の中華民国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵および一般市民を殺害[1][2]、略奪[2]、強姦、放火したとする事件[3][注釈 1][注釈 2]。この事件の呼称は「南京事件」以外にも、様々な呼称がある(後述)。
この事件の存在は、連合国軍占領下の日本において行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)で認定され[5][6]、事件の責任が南京軍事法廷や極東国際軍事裁判で裁かれた[5]。この東京裁判では、南京事件を抑えることができなかったとして当時の国際慣習法では責任を問われなかった[7]「不作為責任」により有罪とされた被告もいる(極東国際軍事裁判 § 裁判の評価と争点)。南京軍事法廷でも、反証提出は許されなかったとされ[8]、議論が続いている(南京軍事法廷 § 南京事件に関して)。
事件の真相には不明な点があり、各史料に食い違いが多いため[9]、事件の規模、「虐殺」の存否[注釈 3]、戦時国際法違反か否かをめぐる論争や、犠牲者数をめぐる論争が存在している。
なお、歴史上「南京事件」と称される出来事は1913年9月(1913年の南京事件)、1927年3月(1927年の南京事件)にも存在したが、単に「南京事件」というと一般には1937年の本事件を指す[12]。
目次南京戦
南京戦の概要
詳細は「南京戦」を参照
1937年11月、上海戦で中国軍を撃破した日本軍は、首都南京に向かい進撃を開始した[13]。10月29日、蔣介石は国防最高会議で遷都を説き、長期抗戦実施のため重慶に遷都し四川を抗敵の大後方とすることを明示し、11月20日、林森は、1000人余の官僚とともに龍興号に乗船し南京を離れ、26日に重慶に到着した[14]南京の防衛か放棄かが討議され、唐生智が南京の死守を唱え、24日、国民政府は南京衛戎司令に唐を任命した[14]。
南京は揚子江方面以外の三方面を完全に日本軍に包囲されていた[15]。唐は各部隊に陣地の死守を命じ、違反者は厳重に処分すると通達し、各部隊の所有船舶は全て第78軍長宋希濂(中国語版)が管理し、勝手な乗船渡江を禁じ、違反者は武力で制止するとした[15]。
12月1日、上海派遣軍の南京攻略命令下達により、上海派遣軍は山田支隊、第十六師団、第九師団などをもって東方から、第一〇軍は第三師団先遣隊、第百十四師団、第六師団などをもって南方から前進を開始し、8日、南京城外の第一線防衛陣地を突破し、包囲の態勢を整えた[13]。12月7日早暁、蔣は宋美齢とともに廬山に向けて故宮飛行場を飛び立った[15]。9日までに外郭陣地は喪失し、烏龍山砲台、紫金山、雨花台が残った[16]。
12月9日、松井は、和平開城の勧告を飛行機で散布した。回答は翌10日正午句容街道上の歩哨線で受領するとした。10日、武藤章参謀副長、中山寧人参謀等が中山門-句容街道上で午後1時まで待ったが軍使が姿を現さなかったため、午後1時、松井は総攻撃の命令を発した[15]。
12日午後、唐は蔣から撤退命令を受け[16]、午後5時、師長以上を集めて軍事会議を開き、蔣の撤退命令を読み上げ、各指揮官に夜6時から明朝6時までに南京を撤退するよう命じた[16]。日本軍に利用されないよう、重要建築物の放火破壊が始まり、第36師が中山北路に面する軍政部、鉄道部 (南京衛戎司令部)、交通部などを焼燬し、1時間以内に市内の主要な建築物は烈しい火と濃い煙に包まれた[16]。12日午後9時、唐は副指令羅卓英等とともに軍用小火艇で浦口に渡り[17]脱出したため、残された軍人や市民は烏合の衆と化し、悲劇を生む一因になった[13]。
山田支隊は烏龍山北側から南下し下関へ向かい、牛島支隊は南から北上し下関へ向かい、佐々木支隊は城北部の門を制圧しつつ前進し、13日午後に下関を占領した[16]。第十六師団は、教導総隊約4万が守備する東部の紫金山を攻撃し、13日夜明け近く、中山門を占領した。第一一四師団、第六師団は、第88師が防衛する雨花台方面を攻撃し、13日正午過ぎ、中華門周辺に到達した[16]。13日正午、国崎支隊が浦口駅(中国語版)を占領し、中国軍の江北への退路を完全に切断した[17]。前線から潰走してきた兵士、傷病兵、難民が中山門、中華門から入ってきたが、難民区に入ろうとして拒絶されると、一部は中山北路(中国語版)を通り挹江門(中国語版)から下関に、一部は中央路から和平門(中国語版)を通り燕子磯に向ったが、両門とも完全に閉鎖されていた[17]。渡江しようとする中国軍とそれを阻止する部隊との間に同士討ちが始まり、多くの兵士はなんの目途もなく寒夜揚子江に逃げ入り、徒死するにいたった[17]。
軍紀
8月5日、陸軍次官は「ハーグ陸戦条約の精神に準拠し」「交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重」するとしながら、別の箇所で「これを厳密遵守とまでしなくてよい」こととし、「捕虜という名称もなるべく使わない」ように現地軍に通知した[18]。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行ったり[19]、また上海戦において、日本軍人が戦友の多くを失い、中国側への復讐感情を芽生えさせたと秦郁彦は指摘する[20]。[要検証 – ノート]12月7日に松井石根司令官は略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む「南京城攻略要領」を自軍に示していた。[要出典]笠原十九司によると、追撃する日本軍は食糧などを途中の農村地域で略奪しながら進軍した、という[21]。[要検証 – ノート]南京に向かうまでの行程で農村部において日本軍による住民の殺害・強姦・強奪が発生するなどの軍紀の緩みがあった[22][23]。[要検証 – ノート]
中国軍による破壊行為・殺害
中国軍の「清野作戦」による日本軍の進攻が予想される地域や南京城壁周辺での建物の焼き払い、「督戦軍」などの中国軍による中国人兵士らに対する殺害も生起していた[24]。
また、馮玉祥は「軍隊が日本人より残酷に人民を殺戮するのを目撃し、民衆は将兵たちを強盗でもみるような目で見ていたのである。唐生智が南京を守備しようにももはや不可能であった。軍隊はかれの命令をきかず、なにより蔣が軍人の信頼を完全に失っていたからである。なぜそうなったのか。蔣は食糧も与えず、負傷者を放置し、将兵が水びたしになっても何の手も打たない。こうしたことが最大の原因だ、そして最も根本的な原因なのである。」と述べた[25]。また、馮は武漢で蔣に対して「負傷兵は優遇しなければならない。憲兵に銃殺させてはいけない。武昌の街で憲兵が何人もの負傷兵を射ち殺している。こんなことでどうして軍心を引きとめておかれようか。」と言ったという[26]。
堅壁清野
『ニューヨークタイムズ』は「中国軍の放火による財産破壊の額は、容易に2000万から3000万ドルに達する。これは南京攻略に先駆けて数カ月にわたって行われた日本軍の南京空襲による破壊より大きいものであり、おそらく、南京攻撃における日本軍の爆撃や占領後の日本軍部隊によってもたらされた被害に匹敵するであろう。中国軍指導部は、軍事的必要性から、市周辺全域を焼き払ったと常に説明していた。」と報じた[27]。
笠原十九司によれば、中国軍が強行した「清野作戦」の結果、食糧略奪と民家宿営に頼ってきた中支那方面軍の諸部隊は、城外区域に駐屯することができず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるをえなくなり、食料物資の略奪が城内で行われることになり、道路沿いの農村が焼き払われたため、諸部隊の食糧徴発行動はさらに遠隔の農村にまで波及した、という[28]。
督戦隊
退却命令の不徹底から、狭隘な通路に殺到した中国兵達と、潰走兵の武力阻止を命令された第36師212団が衝突し、双方が発砲して大パニックとなった。銃撃の死傷者と後方からの圧迫で多数の兵士が踏み潰され、築かれた高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えた兵士の多くが垂直の城壁を急造ロープで降りようとして墜死した (挹江門事件)[29]。下関は、残された少数の船を奪い合う地獄と化し、退却開始の12日夕刻から日本軍の先頭部隊の到着までの約20時間の間に、挹江門から下関碼頭に至る地域では、撤退作戦の不手際により「空前未曾有の惨劇」 (郭岐) が展開され、多数の中国軍兵士の生命が失われた[30]。
南京市の概況
面積
南京市は東西(中山門から漢中門)約5.3km、南北(大平門から中華門)約8kmで、総面積は35km2、城外の下関碼頭や水西門・中華門外の市街を含めても、39 – 40km2であり、鎌倉市(39.67km2)程度の面積である[31]。
総人口
南京の市街地の人口は、日中戦争以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、南京攻撃が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富裕層などが疎開したため、元からの住民の人口はかなり減少した[31]。ラーベは11月28日の日記に「警察庁長から20万人と聞いた」、12月6日の日記に「約80万人の恵まれた市民が逃れた」と聞き伝えを記しており、スマイスの報告書には、陥落当時20万~25万人であったと記されている[32]。ただし、日本軍の急進撃により、住民の脱出の試みは短期間に集中することになり、揚子江を渡る船便の不足や運賃の高騰により、脱出できずに取り残された人も実際にはかなりいたとみられる。また、夏ごろからの爆撃で疎開した者の中には初めから南京城市郊外に疎開していた者、日本軍の進攻が予想される地域から南京を目指してきた難民が多数あり、周辺地域の人口はかなり増えていたことも考えられる。実際に、南京城市外にも多数の難民キャンプが出来ている。
食糧供給の一端を担った南京安全区国際委員会が入城前に上海日本当局へ送った11月30日付の電報には「安全地帯を運営する際には、総計20万人の世話をする必要があると見積もられている」とあり、12月18日、25日にも20万人と記録され、翌年1月14日以後は日本軍のカウントを基に25万人へと上方修正してはいるものの、それ以外の数字の変化は無く、12月13日の日本軍入城後も市民人口は一定であったとの認識を示している[33]。むろん、城外の人口が無くなっているわけではなく、スマイスはこれらの地域の人口と被害状況の調査にも取組んでいる。
議論については「南京事件論争#人口推移」を参照
犠牲者
概略
南京戦において圧倒的に多数発生し激しかったとされるのが、軍属を含む中国兵捕虜、軍服を脱いで民間人に紛れた敗残兵、あるいは、それら敗残兵ではないかとの疑いやその可能性により民間人が、日本兵により殺害されたとされる事件であり、様々な略奪、陵虐、放火などの事件である。これらの事件については当時も事態を知った諸外国から抗議を受け、戦後、東京裁判ではその犯罪性が厳しく追及されたものの、その被害実数や違法性ばかりか事件そのものの有無についても、問題となっている。
中国兵の犠牲者
日本軍、中国軍の損害については「南京戦」を参照
中国軍の南京防衛兵力に関しては、6-7万(「南京戦史」偕行社)、10万(秦郁彦説、台湾公式戦史から)、15万(笠原十九司説・孫宅巍説)と諸説あり、その中での捕虜等になる前に戦死した人数や逃亡し終えた人数も諸説がある[34]。ダーディンは約5万、上海派遣軍参謀長飯沼守は約10万、南京衛戍軍参謀譚道平は約8万としている[32]。南京防衛兵力については、南京戦#南京防衛軍の総兵力に関する諸説を参照。
また、中国軍の敗残兵には軍服を脱いで民間人に紛れて安全区へ逃走をはかったものが多数あった[35]。
議論については「南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法」を参照
議論については「南京事件論争#便衣兵と戦時国際法」を参照
日本陸軍は同年8月に陸軍次官名で「捕虜という名称もなるべく使わないように」と現地軍に通知、これがハーグ陸戦条約の厳密遵守の必要なしとするかのようにも解釈されたとする見方がある[注釈 4]。(南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法を参照)
敗残兵・便衣兵に対する日本軍の対応
『南京戦史』によると、公式文書等に記載された捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応は以下のとおりである[37][注釈 5]
部隊 総数 対応 出典 適用 第114師団歩兵第66連隊第1大隊 1,657
12、13日に雨花門(中国語版)外で収容処断 1,657
13日午後第114師団歩兵第66連隊第1大隊戦闘詳報 雨花台事件[38] 第6師団歩兵第45連隊第2大隊 約5,500
14日午前、下関で収容釈放
14日午後第6師団戦時旬報 第16師団歩兵第33連隊 3,096
10日 – 14日、紫金山北方から下関附近、太平山、獅子山附近の戦闘間処断 3,096 歩兵第33聯隊戦闘詳報 第16師団歩兵第38連隊第10中隊 7,200
14日、堯化門(中国語版)附近収容 7,200
17日、18日頃、南京へ護送歩兵第38聯隊戦闘詳報 国崎支隊(歩兵第41連隊基幹) 120
3日 – 15日不明 120 第9旅団戦闘詳報 歩兵第41連隊第12中隊 2,350
14日夕、江興洲釈放 2,350 第12中隊戦闘詳報 第16師団歩兵第20連隊第4中隊 328
14日、安全区(中国語版)東方処断 328 第4中隊陣中日誌 「銃殺ニシテ埋葬ス」 第9師団 約7,000
13日 – 14日処断 約7,000 第9師団作戦記録概要 第9師団歩兵第7連隊 (6,670)
安全区掃蕩間処断 (6,670) 歩兵第7聯隊戦闘詳報 戦車第1大隊第1中隊 (320)
14日、掃蕩間処断 (70) 第1中隊戦闘詳報 戦争処置 第3師団歩兵第68連隊第1大隊 8 不明 8 第1大隊戦闘詳報 第3師団歩兵第68連隊第3大隊 25 不明 25 第3大隊戦闘詳報 第16師団歩兵第9連隊第2大隊 19 不明 19 第2大隊戦闘詳報 集計(公式文書) 約27,000[注釈 6] 収容 7450、釈放 7850、不明 172、処断 約12,000
部隊 総数 対応 出典 適用 山田支隊(歩兵第65連隊基幹) 8,000
14日 幕府山附近で収容された14,000のうち非戦闘員6,000は釈放逃亡 7,000、処断1,000
14日夜、4,000が逃亡、残余は観音門へ連行『戦史叢書』 幕府山事件[39] 第16師団第30旅団 約2,000
24日 – 翌年1月5日、安全区内の兵民分離収容 約2,000 『佐々木少将私記』 その他入院中の500は収容 第16師団第19旅団歩兵第20連隊第12中隊及第3機関銃中隊 200 – 300 処断 200 – 300 『小戦例集』、『牧原日記』 第16師団第30旅団歩兵第33連隊 数百
16日、17日、紫金山北方処断 数百 『佐々木少将私記』 第16師団第30旅団歩兵第38連隊 数百
16日、17日、紫金山北方処断 数百 『佐々木少将私記』 掃蕩戦間の処分 第16師団第30旅団 数千
24日 – 翌年1月5日、南京近郊、不逞の徒処断 数千 『佐々木少将私記』 下関にて処分 一般市民の犠牲者
議論については「南京事件論争#一般市民に関して」を参照
日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した[40]。日本軍の空襲によって、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた[41]。[要検証 – ノート]なお、行政区としての南京市は上述の広大な農村部地域とその中の市場町を抱える、6つの県(県といっても、中国の県は伝統的に小さな単位であり、英語では日本の県がprefectureで郡がcountyとなるが、中国の県はcountyとされる)からなり、南京城市はその県の一つの中に存在する。
日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺されたとの証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害されたとの証言(新路口事件)がある)[42]。[要検証 – ノート]
ただし、日本軍の南京占領が確定して戦闘が終結するまでに、危険を冒して南京に残った20名あまりの欧米の宣教師らが、南京市陥落前から組織した南京安全区国際委員会が管理する、南京市内の安全区へと多くの被災民が避難したが、その後も、城内の敗残兵狩りに巻き込まれた者や、安全区内外の一般民間人への暴虐行為は継続した[43][44]。[要検証 – ノート]
一方で、安全区の外では、南京占領後も、日本軍による、中国民間人の老若男女の殺害事例が、当時安全区にいた欧米人の記録として報告された[45]。[要検証 – ノート]また、日本軍が南京占領直後に中国側の発電所の技術者も虐殺した[46]という主張もある。
なお、南京と通常呼ばれている地域は南京城市にせいぜい周辺を含めた地域であるが、スマイス調査ではその地域に限定せず、南京を中心とした広大な農村部地域においては2万6千人以上の犠牲があったと推計しているが、これも南京事件の被害に含める見解がある(笠原十九司等)[47]。
南京安全区
「南京安全区国際委員会」も参照
南京安全区(英語版)とは、南京戦前の11月、ジョン・ラーベ及びアメリカ人宣教師たち(プラウマー・ミルズ、ジョン・マギー、マイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなどを中心とする約15名)によって、戦災に巻き込まれた市民を救済するという名目で組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。
安全区設置の目的については、(ヴォートリンの日記に記されていた、安全区設立発案者のミルズの発言’try to encourage and comfort the Chinese army’から)、布教の為に中国軍の支援保護を行うことにあった[48]とし、その前提に1937年5月6日の全国基督教連盟による、プロテスタントである蔣介石の実質的な建国活動(=新生活運動:スローガンは民衆生活の軍事化・生産化・芸術化)への全面支援決議があったとする見方がある[49](安全区内に、戦闘中は中国軍の砲台が置かれ、戦闘後は中国兵の潜伏を許したことが確認されているとの主張がある[48])。上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであった[50]。
安全区内の人口は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城内の南京安全区以外の区域は住民が少ない状況となった[51]。
南京安全区(別称:難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかった(いわゆる「ラーベの感謝状」[注釈 7])。また占領後も日本軍は南京城市内で組織的な地域住民全ての虐殺といったことは行っていないが、安全区内でも個々の暴虐(例:敗残兵狩りの過程での一般人の逮捕と区外連れ出し後の処刑など)の記録はあり、決して過少ではない[54][55]。また、その後、安全区の人口が5万人ほど増えたとされるが、欧米人が設置した安全区が南京市内の中で安全であり、荒廃した市内などから安全区に移動したとされる[56]なお、安全区の人口については、南京事件論争#人口推移、南京事件論争#人口推移の論点を参照。
生起した原因
「南京戦#評価」および「南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法」を参照
南京事件が起きた原因(ただし、規模については論議ある)としての日中両軍の対応について、日中歴史共同研究によると、日本側の研究者は以下のように評価した[注釈 8]。
日本側の問題としては、宣戦布告のない「事変」であったために日中両国が批准したハーグ陸戦条約を日本陸軍が意識的に徹底せず(戦時国際法関連は南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法説明あり)、そのため中国兵捕虜の取り扱い指針の欠如と占領後の住民保護を含む軍政方針の欠如が発生したこと、また他方、補給を無視した進軍が略奪を招いたことによる軍紀の緩み、非行を取り締まる憲兵の少なさ、後続として送り込まれた予備兵の紀律の低さなどが指摘されている[57][58]。
また、捕虜となることを恥とする習慣から相手国の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている[59]。また、日中戦争開始頃からの中国軍から受けた戦闘などの被害への復仇のために、日本兵が中国軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある[注釈 9]。[要検証 – ノート]
中国側の問題としては、防衛戦の誤り、指揮統制の放棄(南京城司令官であった唐生智は「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓い徹底抗戦を叫んでいながら、結局、蒋介石の南京放棄への方針変更により、南京を脱出)、民間保護対策の欠如など(南京戦#評価にも記載あるとおり、日本軍の開城勧告に応じず、脱走困難な部下らを見捨てていち早く南京を脱出したり、十分な住民保護を怠ったことなど)が指摘されている[57]。南京安全区国際委員会のジョン・ラーベも中華民国政府の対応を批判している[57]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件
内容を読むと日本軍より中国軍の悪逆さが目立つように感じます。
南京大虐殺というなら中国の方が業が深いのではないでしょうか?
民間人から食料を奪い街に火をつけ撤退を繰り返しながら、国際法で禁じられているにもかかわらず軍人が民間人を装いゲリラ攻撃を日本軍に繰り返すなど、なんでもありの地獄がそこに展開されていたのが容易に想像できますね
日本軍も軍規を守らないものが出るなど南京の状況は混沌としたものだったでしょう
虐殺に原因があるとすれば両軍、特に自国民を殺して回った中国軍の業は深すぎるとしか言えず
歴史について謝れという現在の中国政府に対しては、「お前らがまず当時の南京市民に対して謝罪しろ、ついでに台湾にも謝らせろ」としか言えないですね
私のお気持ち表明は以上です。お読みいただきありがとうございました