統一教会はロゴが変わった時点で創価に乗っ取られた?可能性のまとめ

目次

統一教会は創価に乗っ取られた?

出雲族とか秦氏とかもうわけわからんけど確かにロゴ変わってる

ロゴが変わったタイミングって?

世界平和統一家庭連合(せかいへいわとういつかていれんごう、ハングル: 세계평화통일가정연합)、旧称世界基督教統一神霊協会(せかいキリストきょうとういつしんれいきょうかい)は、文鮮明によって1954年5月1日韓国で創設された新興宗教[5][1][6][7]およびその宗教団体宗教法人)。略称家庭連合[8](かていれんごう)で、旧略称は統一教会統一協会[9][10][11]1961年5月の軍事クーデターに伴い発足した大韓民国中央情報部(KCIA)の金鍾泌長官の指示で「韓国政府機関」として再組織され、反共団体をつくり、軍需産業に進出し、アメリカや日本で政治工作を行った[12][13][14][15][16]。日本では1964年7月15日に宗教法人の認可を受けた[1]

宗教学ではキリスト教系の新宗教とされ、文化庁が発行している宗教年鑑ではキリスト教系の単立に分類されている[17][18][19]。一般的にカルト宗教であるとされており、世界各国で物議を醸している[20][6][9][21]

2022年7月8日、信者の家庭出身の男(宗教二世)が起こした安倍晋三元首相への銃撃事件以降、日本のマスメディアでも繰り返し報道され、旧統一教会問題が表面化し、広く社会からの注目を集めるようになった[22][23]

概説

文鮮明(1982年)
左から岸信介池田勇人首相、朴正熙(1961年11月11日)
KCIA初代長官の金鍾泌
1978年11月1日に公表されたフレイザー報告書[24]

1957年、英語を話す4人の韓国陸軍の青年将校がそろって統一教会に入信した。すなわち朴普煕(パク・ポヒ)、韓相国(別名ブド・ハン)、金相仁(スチーブ・キム)、韓相吉(ハン・サンキル)の4人である。彼らはいずれも1961年5月の軍事クーデター以後、韓国政府との重要なコネを教団側に提供した。朴普煕は同年に陸軍武官補佐官として駐米韓国大使館に赴任し、韓相国はKCIA初代長官の金鍾泌の個人的な補佐となり、金相仁は金鍾泌の通訳を経てKCIAのメキシコ・シティ支局長となり、韓相吉は1960年代末にワシントンの韓国大使館付武官となった。統一教会は金鍾泌によって再編され、朴正熙政権が権力を確立するにつれ、兵器産業などのビジネスにも参入し、拡大発展していった[15]

1976年、韓国政府による米国議会および米国政府への買収工作(コリアゲート事件)が発覚。統一教会は政府およびKCIAと密接な関係を保ち、その要請により、ワシントンにある関係団体「韓国自由文化財団」や同市にあるディプロマット・ナショナル銀行などを通じて秘密活動の一翼を担ったことが明らかとされた[25][26][27][28]。何百万ドルもの資金を違法に調達して国境を越えて移動させ、米国内で反日デモを組織するなど韓国の国益を促進し、韓国の政治的目的を達成するために各種の工作を行った[14][29][30][31]

1958年5月、文鮮明の命を受けた宣教師崔奉春(西川勝)が釜山から密航船で日本に密入国した。1959年10月2日、新宿区戸塚町(現在の新宿区西早稲田)の時計店で最初の礼拝を行い、日本統一教会が発足した[32][33][34]1960年代後半から、教団系の学生団体である原理研究会による家庭崩壊、学業放棄が社会問題となり、霊感商法が社会問題になった1980年代以降、朝日新聞社や『週刊文春』によって大々的な批判キャンペーンが展開されたが、教団側は激しく反発し、信者によるデモなどが行われた[35]1984年には、世界日報編集長の副島嘉和が教団の反日思想等の実態について、内部告発を行った後に、襲撃を受ける事件が発生。その他にも、教団を批判した人物・マスメディアへの嫌がらせや、教団に関連した不可解な事件が多数発生している。反対派に「共産主義者」「サタン」といったレッテルを貼って攻撃をする[36]ほか、インターネットを通じて、一般人を装った書き込みをすることなどが指摘されている[37]

統一教会は、原理研究会による家庭破壊や学業放棄等の問題、霊感商法とマインドコントロールを応用した高額な物販と献金、勧誘・教化手法に関する問題や、教団が結婚相手を決める合同結婚式、信者間の養子縁組麻薬関連のマネーロンダリング密輸大韓民国中央情報部(KCIA)と連携した国際的な政治工作活動、反共産主義朝鮮半島の統一の支持、金日成時代からの北朝鮮との密接な関係、歴史修正主義文化共産主義論の流布、反夫婦別姓、反LGBT運動、世界各国の保守派・極右勢力との関係など、様々な問題で物議を醸している[14][7][38][39][40][41][42][43][44][45]

統一教会は一般的にカルトとみなされている[20][46][47][38][48][49]。フランスでは反セクト法により、ロシアでは対テロ法により、規制と監視対象とした。また、中国においては1997年に「邪教」に認定されており、活動が禁止されている[50]。 イスラエルの対パレスチナ強硬派やフランスジャン=マリー・ル・ペン時代の国民戦線ニカラグアの反共ゲリラコントラなど、世界各国の保守強硬派あるいは極右勢力を後援していることでも知られている[41][51][52][53][54][55][42][44]。日本においては1960年代岸信介と接点を持ち、以降から反共産主義の活動を中心に、日本政界に浸透していった[56][57][58]。教団は現在に至るまで、国際勝共連合等の関連団体あるいはダミー団体を通じて、自由民主党等の保守政治家と密接な関係を保ち続けている[59]

日本においては霊感商法による経済的被害が問題視されており、全国霊感商法対策弁護士連絡会によると、判明している分だけで、1987年から2021年までの被害件数は3万4537件で、被害総額は約1237億円に上る[60]。霊感商法の商材には関連企業で製造された印鑑・多宝塔・朝鮮人参濃縮液などが用いられた[61][62]2007年から2010年にかけて教団信者への特商法薬事法違反による摘発が合計13件と相次ぎ、2009年2月の新世事件では、教団の渋谷教会及び豪徳寺教会も強制捜査の対象となり、特商法違反(威迫・困惑)で5人が罰金刑、2名が執行猶予付きの懲役刑および罰金刑に処せられた[63]

霊感商法等の問題の背景には、文鮮明をはじめとする韓国人幹部の日本に対する恨(ハン)の感情が指摘されている[64]。文は大日本帝国統治下の朝鮮半島で出生し、その幼少期を「強大国に踏みにじられる弱小民族の苦痛と悲しみがなんであるかを骨髄にしみるほど体験した」と語っている。また、日本留学中には大韓民国臨時政府金九と協力、抗日地下運動に参加していたことも公言していた[65]。教団の教義では日本は「エバ国家」で「サタン(悪魔)側の国[66]」であるとされている[67][56][56][57]。また、教団は伊藤博文暗殺犯の安重根抗日運動の英雄とされる柳寛順を称える運動も展開していた[68][69]。文鮮明の教え(教義)の一つとして、文教祖の恨(ハン)を晴らすのは「エバ国家日本をアダム国家韓国の植民地にすること」「天皇を自分(文鮮明)にひれ伏させること」としている[70][71][72][73]

青春を返せ裁判などの関連事件に携わった弁護士郷路征記によれば、信者は「マインドコントロール」を受けているため善悪の基準が転換し、客観的には悪とされる行為も、神のためであれば善であると信じるようになっている。このため信者は霊感商法や無言電話、違法な選挙運動などの反社会的な行為を平気で行うとされる[74][75]。統一教会の信者の特徴の1つとして「正体を隠す」ことが知られており[76]、信者であるか質問されても「信者でない」と嘘をつくこともある[77]。また、教団内部では「天的うそ」と呼ばれる方便があり、正体を隠しての勧誘や募金、宣伝活動など教団の活動のあらゆる側面で、教団外部の人間をだますことを正当化しているとされる[78][79]

教団は積極的な経済活動を行うことも知られており、米国では日本人信者を利用して水産会社を興し、全米の中・高級寿司屋向けの鮮魚流通の8割を占めて寿司を広めたりするなど多角的にビジネスを広げている[80]。韓国では財閥組織の扱いを受けており、その巨大な資金力を利用して国際的な政治力も獲得しているが[81]、教団の運営資金の7割は日本が担っており、その原資は日本における霊感商法や信者からの経済的搾取より得られた金であるとされる[82][83]。統一教会が大きく成長した最大の戦略的要因として、宗教学者北海道大学教授櫻井義秀は、統一教会が国別に機能を特化させる戦略をあげており、「宗教的競争力のなさを、政治・経済部門の事業多角化とグローバルな事業展開で乗り切ったこと」であると述べている[67]

信者は教団の経済活動のために酷使され、海外の危険地域等に送り出され犯罪に巻き込まれることも多い[84]。弁護士らは、金銭を収奪する献金や「霊感商法」よりも、信者の人生を浪費させる「献身」のほうがより悪質な被害を生んでいるとしている[85]。なお、統一教会では「アベルとカインの原則」と呼ばれる上下関係が徹底されている。信者は再臨のメシアである文鮮明を頂点として、教団内部の上司に対する絶対的服従が求められており、アベルに対する「報・連・相(報告・連絡・相談)」も指導されている。その対象は事務的なものだけでなく、私生活に関わることや心情的な内容までも求められる[86][87]。なお、日本の教団は「韓国支配」の体制になっており、方針を自主的に決定することはなく、韓国人幹部が日本の教会を統制し、地方レベルでも韓国人が支配する体制が敷かれている[88]

有田芳生は、統一教会の本質について、「多国籍企業を上回る準軍事的な国際政党」「宗教という仮面をかぶった経済=政治複合組織である」との見解を示し、その活動は日本韓国アメリカ合衆国をはじめ、世界を股にかけるものとしている[89]1978年11月1日に公表された米下院フレイザー委員会報告書では、「厳格な規律をもった国際政党の特徴を備えている」と評価されており、教団の最終目的を、教祖文鮮明を頂点とする「世界的な政教一致国家を樹立すること」だと断定している[89][90]。教祖の文鮮明本人は「現人神である自分を中心とする神国政治を創る」と言っていたとされる[91]

親世代が統一教会の信者である「2世信者」も社会問題となっている[92]。幼少期から信仰を強要されるなど、ドメスティック・バイオレンス(DV)の状態にあった当時の子供達は、信者や教会からの特定を恐れ、息をひそめ生活せざるを得ない等の理由により散在状態になっており、弁護団が救済の為に活動している状態である[56][57][56][57]

2012年9月3日に文鮮明が死去すると、文と韓鶴子の7男の文亨進は、母親の命により2013年2月に米国会長を解任された。2015年1月、文亨進は分家組織である世界平和統一聖殿(通称:サンクチュアリ教会)を、アメリカ統一教会とは別にアメリカ国内にて立ち上げた[93]。統一教会は現在、文亨進のサンクチュアリ教会を「脱会組織」とみなしている[93][94]。文亨進はトランプ支持者であるとされ、AR-15を重要視する“Rod of Iron Ministries”を率いている事で知られ、2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件にも参加した[95][96][97][98]

2023年10月13日、文部科学省は、宗教法人法に基づく統一教会の解散命令を東京地方裁判所に請求した[99]

1954年の設立当時の名称である世界基督教統一神霊協会は「全キリスト教会を霊的に統合させる協会」を意味する[223]。英語名の「神霊」の部分には Holy Spirit が充てられ、Holy Spirit Association for the Unification of World Christianityとなっているが、これは命名当時に他に適切な訳語が思いつかなかったためであるという[223]

統一教会は、社会における家族の重要性を強調しており[10]、それを反映して1994年5月に名称が世界平和統一家庭連合に変更された。日本で、2015年6月2日に所管する文化庁に変更申請書を提出し、同年8月26日付で名称変更が認証された[224][225][注 5][注 6]

教団の名称変更について、政治的な力が働いているとの指摘がある。当時の文化庁宗務課長だった前川喜平は、教団から最初の名称変更申請があった1997年当時、「実態が変わっていないのに、名前だけ変えることはできない」として、認証できないとして、申請しないよう教団に要請したことを明かした上で、2015年に実現した名称変更について、「当時の文科相(下村博文)の意思が働いていたのは100%間違いない」と指摘。さらに名称変更の申請について、日本共産党宮本徹衆議院議員が文化庁に情報開示を請求したところ、文書は名称の変更理由の部分が黒塗りとなっており、教団が提出した文書はすべてが黒塗りになっていた[229][230]

教団は、政治介入の指摘に対し、2015年当時、「主務官庁が拒否するならば訴訟もやむを得ない」として意見書を提出したことを明かした上で、「純粋な法律問題」として、政治的介入や不正の存在を否定した[231]

韓国では統一教[232][233]、日本では旧称の略称の統一教会、またキリスト教会側からはキリスト教の教会と混同されないよう統一協会と記載され、英語ではUnification Church(統一教会)[10]Unificationism(統一主義)、開祖の姓から俗にMoonies(ムーニーズ)の名で知られる[234]。ただし、信者はムーニーズを蔑称と考えており、自らそう名乗ることはない[234]。文鮮明が率いる組織の集合体は統一運動と呼ばれる[235]。今は、「天の父母様聖会」と、呼ばれている[要出典]

https://ja.wikipedia.org/wiki/世界平和統一家庭連合

1994年に何があったか?

思いつくのは公明党の政権入りが1994年に起きたこと

政治改革の過程で衆議院の選出が小選挙区比例代表並立制に移行していたため、反自民連合の旧与党による新党が結成される必要が生じた。しかし各党派の中でも公明党は大量の党職員と地方議員を抱えており、地方議会の多くでは自民党と連立を組んでいたため、直ちに丸ごと新党に合流できない事情があった。そこで、改選の近い衆議院議員と1995年改選の参議院議員が先行して新党に加わることとなり、1994年12月5日、公明党は先行参加組による暫定的な政党「公明新党」と後発組「公明」に分党される。公明新党は10日に解散し、同日結成の新進党に合流した。地方議員は党職員とともに「公明」に残って事実上の公明党の身分で活動し、機関紙も「公明」が発行され続けた[59]

新進党は1995年の第17回参議院議員通常選挙で自民党に肉薄する戦績を残す。その要因は自民党と社会党が手を結んだことに加え、阪神・淡路大震災オウム真理教事件の対応に不満を持つ無党派層の得票に学会票による票の上積みがプラスされたことであり、総選挙でもこの連携に加えて無党派層を取り込めれば政権交代は確実という見方もあった[注釈 4]。これに危機感を抱いた自民党は、学会・公明党と新進党との離反を図る。参院選後の国会ではオウム真理教事件を受けて宗教法人法改正案が審議されたが、審議の過程で自民党は学会名誉会長である池田の参考人招致を要求する(その後、会長秋谷栄之助の参考人聴取で決着する)。この法改正自体はオウム事件の後を受けたものであり、輿論の支持も高かった。「学会が法改正に反対している」というイメージを除くために、新進党側は法案審議を前にして政務会長の市川らを党の要職から外した。市川らはこれに反発し、市川らと幹事長である小沢との間に亀裂が生じた。その後も自民党は政教分離原則に絡めて公明党を揺さぶりつつ、創価学会と近い竹下派が公明グループの新進党からの離脱を働きかける[60]

旧公明党は徐々に新進党から離反し始め、1996年の地方選挙では学会員が新進党候補を応援せずに自主投票としたり、あるいは自民党の候補をあからさまに応援するなど分裂選挙化した。第41回衆議院議員総選挙では公明党や創価学会の選挙協力が万全に進まず、一部選挙区では創価学会が人物本位のもと対立候補の自民党や民主党の候補者へ投票するなど票が分裂した。さらに新進党が無党派層の票を集めることができずに政権交代に失敗したため、選挙直後から議員の離党が相次ぐようになる[注釈 5]。1997年12月、「公明」は新進党への合流を見送り、翌1998年の参院選は完全に独自で戦うことを決定する。直後に新進党は分裂し、完全消滅した[61]

以後、公明党がこの分党・新進党合流について言及することはほとんどなかったが、1999年の党大会では「出自の違う複数の政党が強引に二大政党をつくったために上手くゆかなかった」との総括が打ち出されている[62]

https://ja.wikipedia.org/wiki/公明党

自・公連立は小渕内閣から

戦後の日本政治において1955年(昭和30年)に始まって自由民主党と日本社会党による「55年体制」の段階では公明党は中道であり、親自民と非自民の狭間を揺れていた。選挙に勝利すれば日米安保自衛隊に賛成、敗北すれば反対と、特に外交安全保障防衛政策で立場の不鮮明が目立った。また、支持母体である創価学会においても、壮年部(40歳以上の男性会員)が親自民もしくは自公民路線、婦人部(既婚女性会員)と青年部(男性は40歳未満、女性は40歳未満かつ未婚者の会員)が非自民もしくは社公民路線を支持するなど内部の路線対立も存在していた。

1970年(昭和45年)に、創価学会が起こして問題となった言論出版妨害事件における問題を契機に公明党と田中角栄(自民党田中派)と良好な関係を構築、田中派が竹下派へ移行した後も、公明党の矢野・竹入・市川といった党幹部と自民党竹下派の議員との個人的なパイプが構築されていった。

詳細は「自公民路線#概要」および「竹入義勝#「政治大学校」」を参照

55年体制末期はねじれ国会のもとでの与野党提携の必要から自公民路線が確立されていたが、自民党側では竹下派の小沢一郎が両党とのパイプ役を担っていた。

55年体制崩壊と公明党の連立参画

1992年(平成4年)の、竹下派(経世会)の分裂により端を発し、翌年の1993年(平成5年)の、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れした。公明党は、自民党を離党し新党を結成した小沢一郎と細川連立政権細川護熙首相)へ参画し、自民党の一党優位体制が崩壊。下野した自民党は翌年の1994年(平成6年)2月に創価学会、公明党への攻撃姿勢を全面に出し、有志議員における勉強会「憲法20条を考える会」を結成。同年4月には非自民連立政権から日本社会党が離脱し、6月末には自社さ連立政権が成立して自民党が与党に復帰した。一方、年末に公明党は分党し、旧連立派で結成した新進党に一部合流。

1995年(平成7年)7月の第17回参議院議員通常選挙村山富市政権与党である自民党・社会党・新党さきがけは大きく議席を減らした。この時、自民党を初めとする与党は新進党を構成する旧公明党の支持母体である創価学会に対する攻撃を展開した[1]宗教法人法の改正に伴い、学会名誉会長池田大作証人喚問を要求し、週刊誌に掲載された池田のレイプ疑惑を追及、自民党の機関誌「自由新報」に継続的に掲載し反創価学会キャンペーンと呼ばれるまでに至った。

詳細は「創価学会#自民党による「反創価学会キャンペーン」」および「反創価学会キャンペーン#反創価学会キャンペーンの展開」を参照

そんな中行われた1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙で新進党が政権取りに失敗すると、新進党内では権力争いや自民党からの引き抜き工作もあり崩壊寸前にまで至った。追い打ちをかけるように旧公明党の参院・地方議員を中心とする政党「公明」が新進党へ合流せず、1998年(平成10年)の第18回参議院議員通常選挙に独自で臨む事を決定。これを受けて1997年(平成9年)12月31日、新進党は自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブ・国民の声の6党に分党することになった。

詳細は「新進党#相次ぐ党内対立と分党」を参照

自民党は1998年(平成10年)7月の第18回参議院議員通常選挙で前回の改選前の61から45に大幅に議席を減らした。この選挙の敗北の責任を取り橋本龍太郎内閣総辞職し、同月30日に小渕恵三内閣が成立した。8月中旬、元首相の竹下登は創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けた[1]

政権運営に行き詰った自民党はまず自由党との連立協議に入り、1998年(平成10年)11月、自自連立の基本合意が首相小渕恵三と小沢一郎自由党代表の間で取り交わされた。同年11月7日、旧公明党系の「新党平和」・「黎明クラブ」・「公明」が合流し、「公明党」を再結成。この際、代表の神崎武法は「自民党の補完勢力にはならない。自公連携、自公連立は考えていない」との考えを表明していた[1]

詳細は「公明党#沿革」を参照

自民党はこうした不安に配慮した。自民党にとっては、自由党との連立のみでは参議院の過半数には足りず、過半数、さらには安定多数を確保するためには、公明党の議席が必要だった。1998年(平成10年)11月、自民、公明両党は、公明党が主張した地域振興券補正予算案に盛り込むことで合意。1999年(平成11年)3月には問題発言などで公明党が辞任を求めていた法相中村正三郎を事実上更迭した。他方、公明党は11月15日投開票の沖縄県知事選挙で従来行っていた革新候補(大田昌秀)の支持を取りやめ、表向き「大田昌秀氏支持を基軸に自主投票」としつつ、実質的に保守(自民)候補の稲嶺惠一を支援し、稲嶺が当選した。

1999年(平成11年)1月14日、自民党と自由党の連立政権が発足。公明党もいまだ名目上は野党ながら、周辺事態法国旗・国歌法通信傍受法住民基本台帳法改正など、政府・与党の重要法案に次々と協力し、与党入りの足場固めをした。同年10月5日、自民党の小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が誕生した。これ以降第1次森内閣第2次森内閣(→改造 中央省庁再編前改造 中央省庁再編後)(森喜朗首相)・第1次小泉内閣 (→1次改造2次改造)・第2次小泉内閣(→改造)・第3次小泉内閣(→改造)(小泉純一郎首相)・第1次安倍内閣(→改造)(安倍晋三首相)・福田康夫内閣(→改造)(福田康夫首相)・麻生内閣麻生太郎首相)、そして、自民党が政権を奪還した第2次安倍内閣(→改造)・第3次安倍内閣(→1次改造2次改造3次改造)・第4次安倍内閣(→1次改造2次改造)(安倍晋三首相)・菅義偉内閣菅義偉首相)・第1次岸田内閣第2次岸田内閣 (→改造)(岸田文雄首相)においても公明党は自民党との連立政権を維持した。

自自公から自公保へ

自自公連立政権が発足した後、自民党は自由党の処理に困っていた。仮に自由党が離反しても衆参で過半数を維持できるためである。実際、連立政権合意に盛り込まれた消費税の福祉目的税化などについて、自民党が協議に応じる気配は一向になかった。危機感を強めた自由党の小沢は小渕に連立合意の実行に加えて、自民、自由両党の解党による政界再編を迫った。しかし、小渕はこれを受け入れるには至らず、2000年(平成12年)4月1日の党首会談後、自由党は連立を離脱した。連立離脱に反対した自由党所属の議員は、扇千景を党首とし保守党を立ち上げ(2002年(平成14年)に保守新党へ変更)、自公保連立政権が成立した。また翌2日、小渕が脳梗塞に倒れた。

詳細は「小渕恵三#突然の死」を参照

自公保連立政権となった後に実施された第42回衆議院議員総選挙では、自民党・公明党・保守党それぞれが議席を減らすも、連立政権として過半数を維持した。

小泉フィーバーから自公連立へ

2001年(平成13年)、小泉純一郎自民党総裁が首相に就任し第1次小泉内閣が誕生すると、小泉純一郎の人気に推されて自民党人気が復活。軒並み選挙では小泉人気に比例し勝利を重ね、自民党と公明党は議席を伸ばした。一方で保守新党は議席を減らし、2003年(平成15年)11月、自民党に吸収される形で解散、自公連立政権となる。2005年(平成17年)、郵政民営化を巡る争いで衆議院が解散第44回衆議院議員総選挙が実施され、自民党は大勝したが公明党は逆に議席を減らす結果になった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/自公連立政権

つまり統一教会の自民と創価学会の公明が実質的に協力関係になったのが1994年

おそらく統一教会が乗っ取られたというより、協力関係になるにあたって反共思想を変容させる必要があったから名前とロゴを変えたということでしょう

ということはサンクチュアリ教会は旧統一教会?

統一教会から派生したサンクチュアリ教会は旧統一教会の教義を守るというか先鋭化したものと考えられますね

でも元を正せばどちらもおそらくキリスト青年教会(YMCA)

だってロゴが…

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