GAZOO に掲載されてるくらい住友に恨みのあるトヨタ
戦争が終結し、ようやく軍用のクルマ作りから解放される。豊田喜一郎は国産乗用車作りの夢に、再び取り組もうとしていた。東京から挙母工場に帰ってくると、すでに取締役になっていた従兄弟の豊田英二(後にトヨタ自動車の会長、名誉会長など歴任、2013年没)を呼んで量産小型乗用車の研究を始めるよう指示した。戦争が終わったのだから、これからは大衆に自動車が普及していくことになる。喜一郎は、焼け跡の中で未来への明るい希望を思い描いていた。
しかし、現実には多くの困難が待ち構えている。挙母工場は爆撃を受けていた。動員を受けてトラック生産に携わっていた人々は退社するものも多く、9500人ほどいた従業員は秋までに3700人にまで減少した。
まずは、なにより残った社員たちを食べさせていかなければならない。私財や部品をかき集め、無事だった工作機械を使って9月から12月にかけて約1000台のトラックを製造した。自動車だけではなく、作れるものは何でも作った。工場では鍋やフライパン、電気コンロなどの生産を始めた。売るもののないディーラーでは、瀬戸の窯元から焼き物を仕入れて販売した。工場のまわりにあった荒れ地を開墾して芋や小麦などを栽培し、収穫後の田んぼでドジョウを養殖する研究も始めた。
進駐軍による日本占領が始まると、軍需工場の生産が禁止された。連合国軍総司令部(GHQ)の指令でトヨタも軍用品の製造はできなくなったが、民生用のトラックについては作ることが許された。12月8日にはGHQの管理下で各工場の民需転換が許可されることになり、再出発が可能になったのだ。しかし、アメリカの方針次第では、工場が接収されてしまうこともあり得る。GHQは財閥解体を進めようとしていて、トヨタも無関係ではいられない。将来が見通せない中、それでも喜一郎は乗用車の開発を諦めなかった。
SA型乗用車が急行列車に圧勝
最初に取り組んだのは、小型車用の新エンジンの設計である。1リッター4気筒のサイドバルブ式エンジンの開発を進めるよう指示したのだ。このエンジンはS型と名付けられ、多くのモデルに搭載されることになる。GHQは、日本全体でトラック1500台の製造を許可しただけである。乗用車の生産は禁止されたままだった。喜一郎は自動車工業の全面的な解禁をGHQに働きかけていて、将来を見越して準備を始めたのだ。
販売網の再建も急務だった。戦争中は自動車の販売も統制され、配給会社を通じて売るしかなかったのだ。トヨタの販売部門のトップにいた神谷正太郎も、日本自動車配給株式会社に常務として出向していた。終戦を迎え、神谷はいち早く動く。戦時中に全国の共販会社を訪ね歩いて築いた人脈を生かし、自由販売への体制を整えた。トヨタ系以外の系列からも有力な販売店を勧誘し、強力なディーラー網の基盤を固めた。
1947年6月、喜一郎の予想通り、GHQは乗用車の生産再開を許可する。業界全体で年間300台というわずかなものだったが、これが突破口になると彼は考えた。10月には小型乗用車の生産・販売を開始する。英二たちによって開発が進められていたS型エンジンを搭載した第1号車ということで、SA型と名付けられた。全国から公募して「トヨペット」という愛称も付けられていた。
SA型に先駆け、SB型トラックの生産がすでに始められていた。名前が示すとおりS型エンジンを搭載したモデルで、1000kgの積載能力を持っていた。小口の運送に適したSB型は人気を博し、1952年2月までに約1万3000台が出荷された。
SB型は従来どおりのはしご型フレームだったが、SA型乗用車は当時としては画期的なバックボーンフレーム(車両中央のX型、もしくはY型のフレームを軸に、エンジンや変速機などを備え付けていく車両構造のこと。軽量、高剛性、かつ空間効率に優れた自動車の設計が可能だった)を採用していた。これにより室内スペースを大きくとることが可能になり、デザインは流線型を採用していた。サスペンションは四輪独立懸架で、快適性を追求している。戦前に作ったA1型と比べると、はるかに先進的な機構を持った意欲作だった。
SA型の性能を広く知らしめたのは、名古屋・大阪間を急行列車と競争したイベントである。毎日新聞の記者が持ち込んだ企画で、国産車の実力を見極めようというものだった。1948年8月7日、朝4時37分発の下り列車が名古屋駅を動き出すと同時に、SA型が線路と並行する道路を走りだした。クルマには新聞記者とカメラマンが同乗しており、不正が入り込む余地はない。通行する道路では事前に警察から制限速度を解除する許可をとってあり、都心部以外では存分にスピードを上げることができる。
SA型が大阪駅に到着したのは、8時37分だった。急行列車の到着予定時刻は9時23分で、46分の差をつけての圧勝だった。SA型は235kmの行程を、平均時速60キロで走破したのである。この快挙は、翌日の新聞に派手な三段見出しの記事となった。
喜一郎の夢が作った純国産乗用車
GHQの許可を待たずに喜一郎が乗用車の開発を進めたことが、大きな成果を生んだのだ。彼の先を読む力と蓄積された技術力が証明されたのである。しかし、会社をめぐる状況は厳しさを増しつつあった。戦後の復興景気で悪性インフレが発生し、政府は金融引き締めに動いていた。自動車の価格が高騰したことからマル公と呼ばれる統制価格が導入され、資材費や人件費が高騰するのに自動車の価格を上げられないという状況が資金繰りを悪化させた。
1949年には、いわゆるドッジ・ラインが実施された。前年にマッカーサー元帥が示した経済安定九原則を推進するため、ジョゼフ・ドッジ公使が来日したのである。ドッジは日本経済がアメリカの援助と政府の補助金でかさ上げされた“竹馬経済”だと批判し、自立化を進めるための政策を立案した。各種補助金を削減し、復興金融公庫の融資を停止する。1ドル360円という公定為替レートを定め、政府予算には超均衡編成を求めるというものだった。
インフレは収束していったが、代わりに“ドッジ不況”が猛威をふるった。1年の間に製造工業を中心に1000件以上の倒産を引き起こし、50万人以上が解雇された。自動車業界も影響は免れない。1949年9月にいすゞが約1300人、続いて10月には日産が約1800人の解雇を発表した。
トヨタでは月賦販売を拡大していたが、これが不渡り手形の発生につながり状況を悪化させた。1949年12月には、2億円もの資金不足が明らかになる。帝国銀行(のちの三井銀行)、東海銀行と共に主力銀行であった大阪銀行(のちの住友銀行)には「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない(豊田自動織機に貸せても、トヨタ自動車には貸せない)」とにべもなく融資を断られ、窮地に立たされた。状況を重く見た日銀の仲介により、大阪銀行を除く、都銀・地銀含めトヨタと取引のあった銀行24行による協調融資団が結成され、ギリギリで破綻は回避された。労働組合も1割の賃金カットを受け入れ、危機克服に向けて協力体制を取った。この時、人員整理を行わないことが労使で確認されている。
しかし、銀行は目に見える形での改革を求めた。協調融資団は、販売部門を切り離し、製造部門は売れるだけの台数を生産する仕組みを作るように要求した。トヨタはこれを受け入れ、4月にトヨタ自動車販売株式会社が神谷正太郎を社長として設立される。もう一つの要求は、人員整理である。家族経営を旨とする喜一郎は、頑強に抵抗した。「人員整理をできるだけ避けたいということは、私の最高道徳律だ」というのが彼の口癖だった。一方、労働組合は会社の業績がいっこうに回復しない状況から、人員整理は必至と判断し、同年3月中に準闘争態勢を確立した。以後、労使交渉は長期にわたる争議へと激化していった。
しかし、赤字はさらに増え、会社は倒産の危機にさらされた。人を減らすことなしには危機を打開できないことが明らかになったのである。6月になって組合は人員整理を受け入れ、喜一郎は辞任を発表する。
代わりに社長に就任したのは、豊田自動織機製作所社長の石田退三である。喜一郎が自動車事業に進出することに大反対していた豊田家の大番頭が、会社立て直しの重責を担うことになった。彼の社長就任と時を同じくして、トヨタには追い風が吹く。朝鮮戦争がぼっ発し、米軍からトラックの注文が殺到したのだ。業績はV字回復し、1951年3月の決算では約2億5000万円の純利益をあげるに至った。
喜一郎は社長を辞任してから、新たな研究に取り組んでいた。小型乗用車とヘリコプターの開発に向け、準備を進めていたのだ。経営の苦労から解放され、エンジニアとしての意欲がよみがえったのかもしれない。会社再建を果たした石田は、喜一郎に社長復帰を要請する。最初は拒絶した喜一郎だったが、度重なる説得に復帰を承諾する。1952年7月に行われる予定の株主総会で承認される運びとなったが、その日は訪れなかった。3月27日、喜一郎は脳いっ血で57年の生涯を閉じた。
1955年、トヨペット・クラウンが発表される。純国産乗用車と胸を張って言えるクルマがついに誕生した。喜一郎が夢見た未来が、現実となった。すべては、一人の男の決意から始まったのだ。
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