広島カープもCIA、統一教会もCIA。文鮮明の思想を研究する原理研究会(CARP)とは?

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学生新聞やってるやつは要注意!!

原理研究会(げんりけんきゅうかい、Collegiate Association for the Research of Principles、大学における原理研究会。CARP)とは、世界平和統一家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会、統一教会)の総裁、文鮮明が提唱する”統一原理”を研究する非営利団体。略して「原研」、「原理研」または英名の略称で「カープ」と呼ばれることも多い。

厳密には個々の大学にある原理研究会という学生サークルの連合体である。現在は、個々の大学または大学周辺地域の学生サークル活動として統一原理にある「為に生きる」という理念を基に、ボランティアなどの地域貢献活動を行っていると称するが、実際は統一協会に勧誘する為の偽装サークルであり、「学生新聞」の活動を隠れ蓑にするケースも多い。「大学公認」「学内のオピニオンリーダー」と表示するのも特徴の一つである[3]

https://ja.wikipedia.org/wiki/原理研究会

発足直後の1960年代以降に社会問題になり、複数の事件・訴訟が発生した。原理研に加入した学生は学業を放棄して活動に熱中し、帰宅せず教団関連施設に泊まり続けるようになった。さらには親に「金を出さなければ親子の縁を切る」「遺産の前渡しだ」などと寄付金を要求し、要求が受け入れられないと断食をしたり、「サタン」と親を罵ったり、「殉教する」と自殺をほのめかしたりと、異常な言動をするようになり、「家庭破壊」の被害が続出した。原理研の活動は、路上での布教や募金活動を不眠不休で行うなどの重労働で、過労で入院する学生も多かったという。原理研の運動が盛んだった早稲田大学では、大学側は学生に対し学業に復帰するように要請するも、布教に専念するために退学に至る学生も現れた[4][5][6]

学生の中には精神異常に陥る者も少なくなかったとされ、1969年に教団に入信した宮城学院女子大学の学生は、両親を「汚れている、サタンだ」と罵る様になり、そのうち幻聴、幻覚と見られる症状が見られるようになった。彼女はたびたび錯乱状態に陥り両親はそのたびに精神科に入院させた。彼女のグループの同世代の女性信者には入水自殺するものもいたという。原理研による家庭崩壊の被害に遭った親らは、「原理運動対策全国父母の会」を結成、渋谷にある統一教会本部前で「わが子を家庭、学校に返せ」などのプラカードを掲げてデモ行進を行った。当時の父母の会が、日本弁護士連合会人権擁護委員会に提出した調査統計によると、全国119名の調査対象者のうち、行方不明は32人、死亡者は3人、精神異常は49人、家出状態は90人に達していた。この統計は調査表に回答した分のみであり、父母の会が把握している被害者はさらに多いとされた[7][8]

このような異常状態に陥る学生が多発していた背景には、修練会での激しい教義の叩き込みがあった。1975年2月に『東京新聞』に掲載された元信者(25)の手記には、教団の教典『原理講論』の堕落論を説かれた時に、体に衝撃波が走り、講師の声が天の声のように降り注いだかのような感覚に襲われたと記されている。彼女が誘った知人は錯乱状態に陥り、大声を張り上げ、裸足で修練場から走り出した[7]

修練会では、数週間にわたって拘束され、人間は罪の塊であると叩き込まれ、罪の意識を植え付けるように徹底される。このために講師が熱弁を振るい、断食をさせた上で、深夜まで祈祷もさせる。その上で救いの手段として、再臨のメシアに清められた神の子にならなければならない、神の子同士が結婚をして、神の子を産み、理想の社会を作らなければならない、と教え込む。人間を恐怖で限界まで追い込み、各種の手法で脳機能を低下させた上で、特定の暗示を植え付ける修練会での手法は「洗脳」の典型とされる[7]

原理研究会は国会でも問題視され、1977年2月7日の衆議院決算委員会で石橋政嗣が、当時の総理大臣であった自民党福田赳夫に対し、「原理運動被害者父母の会」が内容証明で請願書を送付したことに触れている[9]

https://ja.wikipedia.org/wiki/原理研究会

1972年10月に作成された内部文書『J・CARPニュース』によると、原理研究会の「第一回全国指導者研修会」で出された方針は以下の通りである[14]

  • 基本方針 – 「毎年五百名の卒業生を出す。卒業後は全員十字軍へ」「一万二千名復帰。一人月一名復帰」「一年間で千二百名の教授復帰。百二十大学の総長への影響圏」「東大を中心とした自治会復帰。特に主要大学の自治会復帰」
  • スローガン – 「人や社会に希望をあたえよう」

2022年 『World CARP JAPAN』公式ホームページより 

  • 基本方針 – 「教育が人を作り 人が未来を作る」
  • 大学生が世界平和のビジョンを描き、自らの人生の使命を見出せるように真理探究の機会を提供。
  • 平和思想の研究と実践を通して、大学生の倫理観と道徳観を高め、世界を愛する心を育む。
  • 青少年の退廃と家庭崩壊をもたらす利己的個人主義を克服し、“ために生きる文化”を定着させ、平和な世界の実現に寄与。

組織

世界大学原理研究会

世界的にまとめているのは1984年11月に発足した「世界大学原理研究会」(W-CARP / World CARP /World Collegiate Association for the Research of Principles)[34]で、公式ウェブサイトでは『W-CARP JAPANは、「志」をもった若者を育成し、輩出する人材育成団体』と説明している。

初代会長には文鮮明の長男で当時22歳だった文孝進が就任した[34]

世界80か国で活動[13][35]。日本では70の大学にあるとされる[35]

全国大学連合原理研究会

日本においては1964年4月[13]または1964年7月または1964年9月[14]または1966年1月[15]または1969年9月、統一教会の教祖、文鮮明が提唱する統一教会の教理“統一原理”を研究する団体として「全国大学連合原理研究会」 (Japan Carp 、略称・J-CARP )が発足し[15][36]、全国の各大学の学サークルである「原理研究会」が加盟している[37]

日本の統一教会においては、「原理研究会」という別組織ができたことで学生がそちらに取られ、人材の低下や男性信者の比率が落ちたため[15]1978年[14]、教団内部に「学生部」が作られるようになった[15]

アメリカ合衆国における原理研究会

アメリカでは 1971年暮れに統一教会が進出した後、1973年に原理研究会 (CARP) が設立され、若者の多くはこの原理研究会を通じて統一教会に入信した[38]

統一教会との関係

実体として一体、とする主張の根拠となるもの

  • 文鮮明自身がアメリカ上院公聴会で「世界の人々を独裁主義から解放するため、私は国際勝共連合を設立し、更に大学に原理研究会をつくった」と証言している[14]
  • 世界大学原理研究会の初代会長には文鮮明の長男文孝進[34][14]が就任し、その後の会長も文鮮明の息子や統一教会の幹部ばかりである。
  • 日本の全国大学連合原理研究会初代会長の太田洪量は1970年10月の合同結婚式に参加した[39]。『世界日報社』取締役も務めた[14]
  • 浅見定雄が入手した『信仰・理想・情熱━はばたく原研』と題する宣伝用のパンフレットには統一教会の教理解説書である『原理講論』はすべての原理研究会の会員が学ぶ基本テキストである旨が記されているという[40]

別組織、とする主張の根拠となるもの

いずれも当事者である統一教会・原理研の主張。

  • 1977年4月11日 – 東京法務局が統一教会の本部で、総務部長、公報企画部長に聴取した際に、統一教会側は「原理研究会は統一教会の下部組織ではなく、学生の自主的団体。百二十の大学に作られており、会員は約五千名。」、「年間三十億円ある資金はすべて信者の献金によるもの。」と説明した[41]
  • 『ムーニズム』という統一教会の運動を意味する題名の雑誌を発行していた中で、統一教会の教えである「統一原理」に対する統一教会に反対する牧師による反論を掲載していた[42]
  • 2007年 – この時点においては「当法人とは別組織であり、それぞれ設立目的や趣旨、活動などが異なる団体です」[43]と説明している。
  • 公式サイトでは、原理研究会が統一原理を利用していることに対し、『「統一原理」は、宗教法人「世界基督教統一神霊協会(略称:統一教会)」 の教理解説書でもありますが、W-CARP JAPANとは、別の団体です。W-CARP JAPANは、統一原理を理念とした「人材育成団体」であり、非営利組織です。』と説明している。

大学における活動

主な活動は教義である「統一原理」の学習である[44]

一般的にはボランティアで街の清掃や大学案内などの活動を行っていると主張している。また学生新聞の発行を行うサークルを立ち上げている大学もある。近年では、これらに加え、SDGsを絡めた勧誘活動をしている。[45][46]

医学生や看護学生に対しては「平和医学アカデミー」「医療奉仕団」などの海外派遣も行っている。

活動歴のあるCARP(原理研究会)

旧帝国大学

在東京私立大学

その他の国公立大学

その他私立大学

学生新聞

指導者セミナー

1973年文鮮明の提唱で始まり、有名大学の3、4年生、大学院生を対象に、渡航費無料、滞在費無料でアメリカに招待し、アメリカ各地を渡り歩く間に「ムーニズム」「統一思想」を吹き込んでつながりをつけ、教授や高級官僚に送り込もうというものである[58]

類似団体

教師原理研究会 TARP(Teacher Association for the Research of Principles)は、教育関係の信者が所属する団体。2021年の研修会では200名以上が参加し、梶栗正義UPF-Japan議長が講話。性教育、ジェンダー、LGBTなど、様々なディスカッションが行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/原理研究会

広島東洋カープもCIA、統一教会もCIA

球団の歴史

球団創設

1949年正力松太郎2リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[10][12][19]。広島は昔からスポーツが盛んで[20]、特に野球に熱狂的な土地柄[21][22][23]。戦前から広島商広陵中呉港中といった名門校があり、鶴岡一人白石勝巳藤村富美男などの名選手を輩出した野球王国という下地があった[9][10][24][25][26]。正力の2リーグ構想が公に出た4月から[10][27][28]、4か月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[29]。4人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が…と4人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[13][29][30]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注 4]、3人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島2区選出の衆議院議員谷川昇と元名古屋金鯱軍代表で広島県出身の山口勲が「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と訪ねてきた[30]。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた[12]。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[10]、山口に助力を要請され[31]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[12][32]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[29]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[29]。アトムズ、ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[29]。9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」の文字が一般にお目見得した[29]。「チーム名は”鯉” 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[28][29]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注 5]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[28][33][29]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[注 6]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[19]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンス監督石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[19][29]、郷土チームにうってつけの監督として12月3日、石本の初代監督就任が決定した[10][29][34]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[29]、チーム作りを一任[35]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[29]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[9]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[9]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[35]。本拠地は広島総合球場とした。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 7]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹から資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[29]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は広島出身選手に「みんな、広島に帰って来い」と呼びかけ[37]、既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳岩本章ら23人を入団選手として発表した[29]

https://ja.wikipedia.org/wiki/広島東洋カープ

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