問題の謎理論はスポック博士の理論をもとに内山葉子さんが書かれたこの本で広まった
https://www.j-milk.jp/news/hn0mvm0000005cb8.html
↑こちらでも本の概要を説明しています
牛乳を飲むと体内のカルシウムが溶け出して骨が脆くなるって理論←嘘でした
乳製品を多く摂取する欧米人に骨粗鬆症が多い?
骨粗鬆症になる危険因子として、「除去しえない危険因子」と「除去しうる危険因子」の2種類があります(骨粗鬆症の予防と治療ガイドライン2006年版)。
除去しえない危険因子 除去しうる危険因子 加齢
性(年齢)
人種
骨折家族歴
遅い初経
早期閉経
過去の骨折カルシウム不足
ビタミンD不足
ビタミンK不足
リンの過剰摂取
食塩の過剰摂取
極端な食事制限 (ダイエット)
運動不足
日照不足
喫煙
過度の飲酒
多量のコーヒー「除去しえない危険因子」に人種と家族歴があることからも明かなように、骨粗鬆症の危険因子には遺伝の要素が含まれており、もともと黄色人種や黒人に比べて、白人は骨粗鬆症になりやすいのです。
一方、「除去しうる危険因子」に「乳製品の摂取」は含まれていませんし、上記のように非常に多くの因子が関係しますので、「(乳製品を多く摂取する)欧米人に骨粗鬆症が多い」かもしれませんが、「乳製品を多く摂取すると骨粗鬆症になる」という意味ではありません。
アジアやアフリカなどの発展途上国では平均寿命が短いため、多くの方は骨粗鬆症になる前に亡くなっています。日本でも第二次世界大戦前には各種の感染症で亡くなる方が多く、平均寿命が短かったため骨粗鬆症は大きな問題になりませんでした。今後、アジア地区でも平均寿命の伸びとともに骨粗鬆症患者の増加が予想されています。
https://www.jpof.or.jp/osteoporosis/nutrition/milk.html
グルテンが腸に悪いというのも嘘
小麦アレルギーの人がパンやパスタなどグルテンを多く含むものを摂取すると腸に炎症を起こすというのが欧米におけるグルテンフリー人気の理由
グルテンは、小麦、ライ麦などの穀物の胚乳から生成されるタンパク質の一種で、グルテニンとグリアジンが水を吸収して混ぜ合わさったものです。
グルテンはタンパク質なので、小麦アレルギーがある方は除去しなければなりません。(小麦アレルギーはグルテンだけが原因でありません。)またセリアック病というグルテンに対する免疫反応が引き金になって起こる自己免疫疾患、グルテン過敏症(または非セリアック・グルテン過敏症)というグルテンの中に含まれるグリアジンという主要成分に過敏に反応して、身体に症状が現れる疾患があります。
上記の疾患などがある場合、グルテンを除去しなければ、小腸の粘膜に炎症が起こり、栄養素の吸収が阻害されます。その結果、腹部膨満感、腹痛、下痢や便秘、栄養状態低下、鉄欠乏性貧血、疲労、骨粗しょう症など、さまざまな症状をきたします。
グルテンは麦に多く含まれて、小麦、大麦、ライ麦、もち麦、押し麦などがそれにあたります。一般的なパン製品、パスタ、めん類、菓子類などに小麦や大麦が使用されています。またその製品の中に「つなぎ」としても使用されています。
http://www.okuboshika.jp/blog/2018/04/post-36-594759.html
スポック博士自体が極端な考えの持ち主
ベンジャミン・スポック(Benjamin McLane Spock, 1903年5月2日 – 1998年3月15日)は、アメリカの著名な小児科の医師で、ベトナム戦争に反対し平和運動家としても活動した。
1946年に出版された、赤ちゃんから子供の時期の育児について書かれた『スポック博士の育児書』(日本語訳は1966年)は、世界的ベストセラーの一つに数えられている。42か国語に翻訳されて世界中で5000万冊販売され[1]、聖書の次に売れたとも言われている[2]。母親への革新的なメッセージである「自分を信じてください。あなたは自分が考えるよりはるかに多くのことを知っているのです」は有名である。泣いても即座に抱き上げないという、厳しさと躾を重んじる子育てのやり方に反して、乳児とのスキンシップと愛情を示すことの重要性を説いた(ただし添い寝は否定している)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベンジャミン・スポック
コネチカット州ニューヘイブンに生まれた。オランダ系の血筋を引く[3]。小児科学を学ぶのに、子どもの要求と家族のダイナミズムを理解しようとした最初の小児科医とも言われる。また1924年のパリオリンピックのボート競技エイトの一員であり、金メダルを獲得している。
イェール大学卒業後、コロンビア大学医学部を首席で卒業。コーネル大学付属病院で小児科医を務めた。
1968年5月スポックはウィリアム・スローン・コフィンら5人とともに徴兵拒否の教唆扇動罪で起訴される。同年7月10日に有罪判決がでるも控訴で無罪となる。
1972年に人民党(People’s Party)の候補として大統領選挙に立候補したが落選している。
1992年、スポックは病気になりマクロビオティックの久司道夫に食事指導を求めた[4]。晩年のベンジャミン・スポックは、病気になったのを期にベジタリアンをはじめ、それによって健康を回復した[2]。スポックの病気が良くなってから、道夫はスポックに対して、「子供に肉や牛乳を与えるのはおかしい。死んだ後に恥になるから著書を書き直しなさい」と言った[5]。スポックは考えが変わり、マクロビオティック関連の医師と共に牛乳や肉は必要ないと発表することにした[4]。ベンジャミン・スポック率いる医師団は、健康で丈夫に育つために牛乳は必要ないと主張した[6]。反響が大きかったため、耐えられなくなったスポックは3ヶ月隠遁したが、それはやめて育児書を書き直すことにした[4]。スポックは、牛乳はいくらかの子供のアレルギーの原因となり、また2型糖尿病につながるかもしれないと忠告していた[2]。
1994年の朝食では、玄米に味噌汁に野菜というマクロビオティックの食事をしていた[7]。
1998年に出版された『スポック博士の育児書』の第7版では、2歳になればもう乳製品は必要なく、植物性の食べものだけを食べるという内容になった[2]。第7版は、論争を巻き起こし、スポックは子供にも大人にも肉、鳥、魚、乳製品を含まない食事が最良であると主張した[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベンジャミン・スポック
このマイクロビオテックの久司道夫がくっそ怪しい
久司 道夫(くし みちお、1926年5月17日 – 2014年12月28日[1])は、アメリカ合衆国のボストンを拠点に自然食のマクロビオティックの研究、発展、普及に努めた。アメリカ国内を起点としてヨーロッパ、日本でも活動した。健康が世界平和の鍵だとした[1]。クシインスティチュートインターナショナル代表、久司財団会長、イーストウエスト財団会長、社団法人日本緑十字社社長。和歌山県新宮市出身。
1926年5月17日、和歌山県紀の川市(旧:粉河町)にて生誕する[2]。幼少期から世界平和に関心を持っており東京大学にて政治学・法学を学ぶ[1]。東京大学法学部政治学科卒業。同大学院国際政治学修了。
東京大学在学中に、食養研究家・思想家の桜沢如一の世界政府運動に関わる[2]。1949年ごろから、食事をマクロビオティックの方向へ改めた[3]。1年間桜沢の下で勉強し、1949年にアメリカ合衆国ニューヨークへ渡り、コロンビア大学大学院政治学部に入学[2]。この渡米には、世界平和の支持者でジャーナリストのノーマン・カズンズの支援があった[1]。渡米から1年は、英語に堪能ではなかったため図書館に通っていた[1]。1951年、アレクシス・カレルの『人間-この未知なるもの』を読み、人類の問題は食物と環境から起こることを再確認し、マクロビオティックの考え方に完全に呑みこまれたと述べる[4]。やがてアヴェリーヌ(桜沢の門下生としての活動名で本名は横山偕子[1])が渡米してきて、アメリカで一緒に食事療法を教え始める[1]。アヴェリーヌはイリノイ大学とコロンビア大学に留学しており、道夫と1954年に結婚する[1]。1960年代に、髙島屋がアメリカに進出したが、レナウン創立者のすすめで副社長となって開店を手伝った[5][1]。肉、卵、牛乳などの動物性の多い食事から、植物を中心とした食事を提唱し始めたとき、当時のアメリカでは完全に異端視された[1]。
1965年までにアメリカでの活動は順調に成長したが、1965年に妊婦が厳格な食事療法を実施し死亡したという一件から反対をされるようになり、桜沢の死期でもありボストンで活動しなおすことにした[2]。1966年、ボストンに自然食品店エレホンを開店させるにあたって、訳語として natural food erewhon と看板に掲げ、そして natural foods という単語が世界中に広まっていった[6]。自然食品店エレホンでは、有機農業を支援しながら有機食品を販売し、豆腐や味噌をはじめとしたあらゆる日本の伝統食品も販売していった[7]。1969年、自然食品店エレホンの支店をロサンゼルスに開いた[8]。マクロビオティックに限らない話題を扱った East West Journal を出版し、ニューエイジに興味がある人をつなぎ合わせる媒体のひとつとなった[2]。最初は家の地下室を使って活動していたが、ボストンとロサンゼルスに倉庫を持つようになり大規模な事業へと成長していった[1]。1976年、ジョン・レノンが面会に来る[9]。(ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、1980年のPLAYBOYのインタビューで、食事はほとんどマクロビオティックだと応え[10]、マクロビオティックの料理番組に出演したこともあった[11]。)1977年には、マサチューセッツ州ベケットのバークシャー山脈にクシ・インスティチュートを設立した[2]。エレホンは事業拡大の圧力に耐えきれず経営困難となり、1981年に売却される[1]。久司夫妻はアメリカ国内でも著作活動を行った[12][1]。
アメリカでの活動が認知され、米国国立歴史博物館「スミソニアン」に、久司道夫のマクロビオティックの代表的な出版物や資料がクシファミリーコレクションとして保存される[2]。1988年、世界保健機関の大会で「マクロビオティックによるエイズ治療」という講演を行った[13]。コンビニエンスストアのローソンの幹部がローソンを変えようとしたとき、幹部に健康指導をしたことがきっかけとなってローソンを変えるための指導をすることになり、これがナチュラルローソンにつながっていった[14]。
長年マクロビオティックを実践していた夫人のアヴェリーヌは、1992年に子宮頸癌となり放射線治療を受け、そして癌が骨に転移すると鍼灸や東洋の治療法を受け数年間は癌の問題はなくなっていたが、2001年7月3日に癌で死亡した[12]。
久司道夫本人も2004年に結腸癌を発症し手術を受けている[15] 。しかし、久司道夫本人は高齢になっても世界各地を飛行機で移動し、一年の大半をホテルで暮らし、外食がほとんどで、マクロビオティックを実践できなかった。留守を守っていた夫人も、日夜を問わず訪れる重病患者の相手に追われるなど大変多忙な暮らしであったという[要出典]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/久司道夫
特にその師匠である桜沢如一がもう明らかに悪魔崇拝してる。めっちゃコルナサインしてるしw
桜沢如一。1920年(28歳前後)、パリにて。
櫻澤 如一(さくらざわ、ゆきかず[1]、にょいち[2]、若き日はじょいち[3]、1893年10月18日 – 1966年4月24日)は、日本の思想家、マクロビオティック(食養)の提唱者。海外ではジョージ・オーサワ(George/Georges Ohsawa)の名で知られている。マクロビオティックを日本、北米、中南米、欧州、インド、アフリカ、ベトナムに広めた[4]。
京都市東山区で生誕した桜沢如一は[5]少年の頃は病弱であり誌歌に触れ10代を過ごしたが、苦学を重ね商業高校、仏語学校を卒業し貿易商となる。苦学の時期より石塚左玄の食養にて健康を回復し、貿易事業と並行して、大和言葉のよみがえり運動の一環でシャルル・ボードレールの『NAYAMI NO HANA』(悪の華)などを翻訳した。カメラや撮影機、映写機、放送機など電子機器を扱った商売からは1924年には手を引き、左玄の食養会の活動に尽力し数十の書籍を出版した。またその成果をフランスのパリで試しに無銭武者旅行に出発し、フランスでも著作活動を開始する。同時並行で日本に帰った時には反戦運動を行い、その目くらましとして健康指導、翻訳活動に身を投じ、岩波文庫からのカレルの『人間』も当時の活動である。1937年には食養会の会長に就任するがその2年後には脱会した。
1940年には滋賀県大津市にその食養の理論を東洋思想の易を交えて独自展開する無双原理講究所を開設。次第に再び反戦活動へと傾倒していき、戦争がはじまると軍部や右翼から暴力を受けるが、1945年に日本が敗戦すると世界政府協会を作って、世界連邦運動に取り組み平和を追求することになる。その思想の根本には食による健康があった。再び、欧州やアフリカなど世界旅行によってマクロビオティックの普及につとめ、各地に団体や食品店が生まれ、1960年には訪米し普及に努める。日本での団体は、真生活協同組合(1945年設立)、メゾン・イノグラムス(真生活運動のセンター、1947年設立)と経て、日本CI協会(1957年設立)となる。如一の没後は、マクロビオティック料理教室の校長を務めていた妻の桜沢里馬が同協会の会長となる[6]。後継者にはアメリカでの普及に尽力した久司道夫、日本では大森英桜、岡田周三といった人物がいる
https://ja.wikipedia.org/wiki/桜沢如一
めっちゃ胡散臭いでしょw
現在のビーガンの走り見たいな活動ですが、ガチなビーガンはクッソ老けます。そして科学的にも必須アミノ酸が足りなくて普通に死ぬのでやめましょう。
しかしこの理論を広めて小麦と牛乳の生産者を苦しめて何がしたいのでしょう?
というかこいつよく見たらイルミナティポーズ決めてるやん。
悪魔崇拝者かよ。